今回から、エドガー・H、シャイン著「組織文化とリーダーシップ」翻訳紹介の間に、横山さんの講演録を入れさせていただきます。この講演録は4回(その後のものを合わせると12回)にわたりますが、キャリアコンサルタント協議会で2008年に収録したものです。キャリアコンサルタントの方にはぜひ聞いていただきたいものです。
横山哲夫先生講演録 その2
戦争に負ける2~3年前からの記述であります。
自分は自分の進路としていきたくなかった技術系の学生でありました。
どうして行きたくないと言うと、お国にご奉公する方法は色々あったわけであります。けれども、2つの理由で最も自分の行きたくない方向へ、つまり私のキャリアの展開の一番最初の部分において、そういうところから始まったということになるわけであります。先ず自分の親父が、父親が職人的な技術者であって、もっと幅広い技術というものを自分でも欲しがっていたし、それが得られないということで色々と苦労をしたということもあり、息子も立派な技術者にしようということは早くから決めていたということがあります。
で、あのもう一つお国に尽くす道というのは戦争がますます不利になってくるという時代でありますから、いろいろな形のご奉公ができたわけでありますけれども、技術系の学生はその技術を持ってご奉公するということが求められていたと。ということで自分の好き嫌いや、或いは自分の適性を云々する前に、大きな時代の流れと親父の力の合わせ技でそういう状態に自分を置いたということなんですね。
何をやっても面白くないんですね。学校でやることが。2行目辺りに書いてありますけど、鬱的な状態。学校が面白くないのでどこへ行って何をしてたかというと、主とて図書館通い。図書館で何をやっていたかというとトルストイばっかり読んでいたのです。トルストイの特に晩年の作品に魅惑されて、そういうことを。それ以外は下宿で作ってくれた弁当を持って近くの山の上に上がって、弁当を食べて何か自分なりの支度をして帰ってくる。
特攻攻撃というのが始まる時代、ちょうどその時でした。ちょっと時が前後するかもしれませんけど、同じ歳の若者がどんどんお国のために死んでいくという時に自分に合わない領域にあるからといって何もせずに自分の好みである本を読みふけり、学業に全然励まないという存在を自分ながら大変疎ましく思っていたことを間違えない。指導教授は私と朝、顔を合わせると「おっ、元気かっ」いつも同じように労しい(いたわしい)顔で元気かと。実は教授は、私が自殺をするのではないかという風に見ていたらしいんですね。自分で死ぬつもりはまったく無かったんですけども、まあそういうふうに周囲から見られていた時に、非常に私をよく見てくれていた指導教授がその心配していたということを、後から聞かされたほど沈鬱な毎日。先の見えない毎日。明るい希望につながるようなものは何もないというような毎日。まあそういうところから、私の自覚をしたキャリアはスタートをしているわけです。
理工系、技術系の学生というのはその技術で動員をされます。
火薬工場だったんですけど、火薬工場で作業員をまあ徴用工という形でほうぼうから集めて来て、そのそうやって薬を作ると言うことをやっていたわけです。
待遇は、処遇は、技術将校の見習いというようなところで、まぁそれなりの職務をあたえられてやっていたんですが、どうしてもその職務も嫌で、工場の作業者が数百人いたわけですけども、その工場の作業者の生活管理の担当にしてもらいました。
実はその担当者というのは教育経営師範の学生がやっていた仕事ですが、やはり徴用され動員されてその仕事についていたのですけども、先に戦地に行きましたで空席ができた。それをやる者がいないということで専門の分野は違うけれども、どの技術系のグループでもいいからそういう仕事をやってくれる者はいないかという問い合わせがあって、私は一番先に手を挙げて工場作業者の生活管理の担当ということに転属を志望したのですが、それでそこに入れた。
言うなれば人事管理の真似事のような事ですね、まあ学生時代から人事曲がりのことをやったということになるわけです。生産に関係した火薬の生産に関係した技術的な指導よりか、それをその作業に携わる人たちの生活の管理相談相手ということでやっていたわけで、まあそれでお役に立ったと思うのは、工場内にいろんな仕事はもちろんあるわけでありますけれども、その配置あるいはその配置の転属ということの中で私の持っている知識、相談から得た情報などを提供することによって、その工場のマネジメント、つまり軍の佐官級の方がその工場長をやっておられるわけですけど、その満足と働く人の満足と両方が得られることに世の中にも貢献できたかな、つまり何かをしていてそれが貢献につながったということの思いというのを初めて人事管理の真似事をした時にまあ得られたということだけ、一つだけが、プラスを感じた状態だったかと思いますよ。
で、終戦。私の年齢は昭和の年号と数え年と同じなんですね。昭和20年。数え歳で20歳。非常に、あの、物忘れが進んでおりますけれども、これだけは忘れることがなくて覚えやすいわけでありますけども、そのところですべての環境が一変してしまいました。
敗戦の屈辱。その代わりにですね、一人一人の人間が自分の生き方働き方の自己決定をしていいんだと。そういうふうに事態が急変した訳ですね。多くの人が同じ感情を持ったんですけど、取り訳け私は申し上げたような状況の中で、強烈な明るさ、つまり先が見えるということはこんなに良いことか。敗戦の屈辱はもちろんありましたけれども、これで自由になった。これで何か自分のしたいことができる。自分のしたいことをやりながらお役に立つということが出来るんじゃないかということ。
何かよく分からないのだけれども、非常に強烈な明るさの近くというの、まざまざと自分で感じておりました。
(つづく)平林良人