横山哲夫先生は、個人が人生を通じての仕事にはお金を伴うJOBばかりでなく、組織に属していようがいまいが、自己実現のためのWORKがあるはずであるとキャリアコンサルタント養成講座の中で強調されていました。そして数多くの著書を世の中に送り出しています。
今回はその中からキャリアコンサルタントが知っていると良いと思われる「組織文化とリーダーシップ」を紹介します。
本記事はエトガー・H・シャインの著作「組織文化とリーダーシップ」を横山先生が翻訳されたものです。横山先生はシャイン博士が2006年来日した時の立役者(JCC:日本キャリア・カウンセリング研究会が招待した、彼と娘さんが来日した)で、東京、大阪でシャインが講演をする際にいつも同席し、そればかりか新幹線で京都案内までされて、ごくごく親しく彼の人柄に触れた日本人でありました。
横山先生の思想の系譜をたどるときには、エドガー・シャインにかならず突き当たるので今回から横山先生の翻訳を紹介しながら彼の思想の系譜を探索していきたいと思います。
<ここより翻訳:2010年シャイン著>
■ 道徳主義と実用主義
現実の検証(reality test)にどう迫るかという点でのグループ比較をするために有用な次元について,イングランド(England,1975)の研究“moralism-Pragmatism dimension”が適用できる。マネジャーの価値に関する彼の研究で次のことが明らかにされた。世界各国のマネジャーはふたつの傾向に分類することができる。ひとつはプラグマティック,つまり,経験を通じての正当性を立証しようとする傾向であり,ほかのひとつはモラリスティック,つまり普遍的哲学,道徳システム,伝統を通じての正当性を立証しようとする傾向である。米国人は前者,欧州人は後者の傾向を有する。この次元を基本的な前提認識に当てはめると,真実(truth)とは何かの明確化についての異なった根拠を具体的に述べることができる(表2)。
この次元は真実とは何かの根拠を明らかにするだけでなく,ホフステッド(Hofstede,2001)の「不確実性の回避(uncertainty avoidance)」と「あいまいさへの寛容(tolerance for ambiguity)」への関連付けを可能にした(Hofstede 2001;Adorno & others,1950)。
表2 「真実(truth)」の決定可能性の基準
・純粋なドグマ(伝説・宗教に根拠):常にかくありき:神の意思だ:教義に記されている。
・あらわにされたドグマ(賢人の権威への信頼にもとづく知恵,正式なリーダー,予言者,王):われわれのリーダーがこうしたいと;われわれのコンサルタントがこうすべきだと:最高の経験者2である彼・彼女の意見に従おう。
・「合理的一法的」な真実(絶対的な真実はありえない。罪や無知が合理的一法的プロセスで対応されることに同意しているように):マーケティング委員会に結論を付託しその決定通りやればよい:ボスが決める問題だ:投票して多数決で決めよう:製造部長が決めることに同意したはずだ。
・真実は対立を克服,討論を制したところにある:3つの委員会で徹底討論し,セールス部門でも検証してもらった,この案はいまも生きている,やろう:本件はこのように進めたい。誰か何か問題があれば言ってほしい。もしなければそれでやろう。
・真実は現実にうまくいくかのなかにある:純粋にプラグマティックな基準:試しにやってみよう。そしてわれわれで評価してみよう。
・真実は科学的な方法によって確立する(再度言うが,一種のドグマになる):我々の調査研究によればこの方法は正しい。三つの方法の結果が一致した。
世界諸国のマネジャーと従業員が多様なレベルの不確実性とあいまいさに対して,質と程度の差こそあれ,さまざまなレベルの満足感(comfort)を示す。環境が激変し,職業が技術的に複雑化するに伴い,不確実性を受け入れる能力が各界のリーダーの生存と成長のためにますます必要になるであろう。そしてそれは不確実性を迎えいれることのできる国家,組織の内的適応力となっていくであろうことを示唆している(Michael,1985)。
この議論はDEC,チバ・ガイギーの2事例によって要約することができる。DECは対面する現実はプラグマティックな基準と討論で把握できるということに高いコンセンサスを得ていたし,あわせて曖昧さに対する非常に高い許容力を保有していた。DECのコンサルタントを引き受けていたが,その間に提案を求められたことは一度もなかった。もしあったとしても,私の提案は忽ち多様なアイディアに包囲され,討論でつぶされてしまったであろう。チバ・ガイギーでは私はつねに権威者として処遇された。私の調査研究や経験や,それをベースにした提案を求められた。組織に新たな知識をもたらす科学者として遇されたのだ。私の提案がそっくりそのまま実施に移されたこともあった。文化要素的に対立の可能性のある提言をしたらどうなるか。コミュニケーションの双方向性を進める提言をしたところ,一発で却下。チバ・ガイギーは曖昧さに寛容ではなく,また次元的に道徳主義的な傾向が強く運営されていた。
■ 「情報」とは何か
グループがどのように現実を見定めるテストを行い,意思決定をするかについては,データを構成するものは何か,情報とは何か,知識とは何かについてのコンセンサスが必要になる。情報技術の向上に伴いこの課題は先鋭化されてきた。「情報」を提供するコンピューターの役割についての論争が高まった。情報技術「プロフェッショナル」はシニア・マネジャーの前提認識とは著しく異なる共有前提認識を奉じているようだ。たとえば多くの経営者はコンピュータ・スクリーン上で得られるものは「データ」であり,本当に必要なのは情報であると指摘する。そのことが意味するのは高レベルのデータ分析であり,それは精緻をきわめたデシジョン・サポートシステムあるいはエキスパートシステムがプログラムされない限り不可能である(Rockart & DeLong,1988)。グループが現実的な意思決定を下すためには当面のタスクと関係する適切な情報項目についてのコンセンサスを持たなくてはならない。
情報(information)のような抽象用語の内在的な曖昧さについての好例としてドハティ(Dougherty,1990)の新製品開発チームについての調査がある。彼女は,この製品開発チームに集められた機能別スペシャリストごとに形成された5つのそれぞれに異なる「思考グループ」が存在することを発見した。優れた意思決定のためには,顧客に関する多くの情報が必要であることをチーム全体として理解していたし,各メンバーはそれぞれ顧客に関する必要な情報を持っていることを確信していた。その一人ひとりが最終的に結論を出そうとする段階でお互いの情報に何か相違があることに気がついたのだ。
・マーケター・ビジネス企画グループは,全体的にマーケットの所在,潜在性とその大きさ,利益水準確保のための価格と販売量,マーケットの傾向などを把握していた。
・現場セールスグループは,潜在的顧客の製品の使い道,現在顧客のニーズの詳細,他社の競合製品より優先してくれる理由などを把握していた。
・配送グループは,製品の売られ方,チャンネルの数,マーチャンダイジングのありようなどについて心得ていた。
・エンジニアのグループは,製品のサイズのありよう,技術的規格を頭に叩き込んでいるようだったし,パワープラグの最善の場所などへの配慮をしていた。
・製造グループは,製造量の可能性は言うまでもなく,製造モデルの種類,コストなどを把握していた。
各グループのメンバーは職業的背景も機能的経験も十分であり,グループのコンセプト,用語も共有していたが,相互にほかのグループとの間の理解,評価は十分とは言えなかったのだ。
このようにサブカルチャーに属する人たちが新製品開発チームに一緒に集められた状況では,ほかのグループの現実を見抜くことのできる能力が新製品の市場における成功,失敗の決定的な要因になる。新しいチームでの相互理解を進めるためには,通常のミーティングなどのレベルを超えた,個人的な会話のやりとりによって,同意・不同意が本当にそうなのか,伝えあった情報の中身に相違がないか,などにお互いに気づくことができるような機会を設けなくてはならない。実践に役立つ仲間となるための,臨時の文化の島が必要なのだ。
「情報とは何か」の問いかけは今特別な意味を持つ。百科事典はウィキぺディアのようなネットワークベースにその場を奪われつつあるからだ。真実の追求には,純粋な科学的基準はDECのやり方に近いプロセスにその場を奪われつつある。つまり,提案,チャレンジ,討論,さらに最終的には生存に向けた解決のプロセスである生存・成長のプロセスだ。
■ 本章の要約と結論
文化の分類をめぐるもっとも重要なことのひとつは,現実(reality),真実(truth),情報(information)がどう定義されるかの前提認識である。現実は物理的,グループ,個人的レベルで存在する。その検証はそのレベル順に,わかり易い物理的検査,社会的コンセンサス,個人的経験となる。職業とマクロ文化は,真実に向けての道徳主義的/伝統的基準への準拠度が高いか,対極的にプラグマティック/科学的な基準が高いかによって異なる。グループは情報についての前提認識を進化させる。それはグループが意思決定をするのに十分な情報を得たと感じたときである。進化した前提認識は究極の真実に向けてさらに深められた前提認識となっていく。事実(fact)とは何か,情報とは何か,そして真実とは何か。その解明はそれぞれの既成の言語による知識の共有に依存するだけではなく,コンテクストとコンセンサスの力を借りなくてはなるまい。
(つづく)平林良人