キャリアコンサルタントS.Sさんからの便りです。活躍している「キャリアコンサルタント」からの近況や情報などをお届けします。
これまでも幾度か「キャリア形成」について述べてきたが、ここでまた改めて考えてみたい。キャリアは、生きているかぎり幾度でも自問自答してみるべき永遠のテーマではないだろうか。キャリアと聞くと、未だに「経歴」とか「就職」など、短絡的に仕事に関することだと思い込んでいる方がとても多い。または、過去の職業における体験から得た経験値としての技能や知識の集積として捉えている方々が多いことは以前にも述べた。
もちろんそれらは無関係ではないが、そういった誤解認識があるためかキャリア形成と聞けば「下積み経験が大切だ」とか、「いつかは憧れの職業に就くこと」という解釈を基に、念願かなって就職できることを「夢の実現」だと勘違いしてしまうのである。それに「憧れの職種」とは言っても、その内容が自分にとって「欠乏欲求を埋めるための手段」であったり、苦しんでいた時期に自分を助けてくれた人を「救世主」でもあるかのように捉え、自分も誰かの力になりたいといった憧れを以て抱いているとすれば、やはりそれも自らを重ね合わせて観ているだけにすぎない。
また一方で、「自分は何をしたいのか」がなんとか自覚できているとしても、自己評価的な意味で「どうせ無理だし・・」と無意識的に抑圧し、「無駄なことは考えない!」とばかりに将来を想定しようとしないケースも多い。可能なかぎり「ニュートラルな位置」に立って自分に聴いてみることをしなければ、心の底からやりたいことなど見つかるわけがないのである。少なくとも「やりたいこと」と「不足感を充たすこと」はイコールではない。
たとえば、「もし、魔法が使えるとして、いちばんやってみたいことは何ですか?」と尋ねられたときに、「そうですねえ、独りで旅に出て、どこかの高級リゾート地でゆっくり休みたいですねえ。」と答えた場合、それは「夢」というより
日頃から充たされていない欲求の解消・・つまり「経済的に余裕がなく、ゆっくり休む時間も取れず、常に誰かに振り回されている現状から一時的にでも逃れたい」ということであり、先が見えない苦しい状況において、心労が溜まっていることに他ならない。この場合、本当の「夢」を語るために、まずは辛く落ち着かない状況を脱する必要があるだろうし、あるていど充たされていてこそである。
自らのキャリアについて語ることができるためには、そういった思い込みや偏った認知をあるていど解消しておくことが前提となろう。夢を叶えるというのは、言わば「自己実現に至ること」と解釈することができるが、ここで言う「自己」とは、未だ観ぬ自分、まだ出会っていない自分(自覚できていない部分)を含むものであるし、今後の人生航路において発見するであろう未知の自分をも内包する開発的かつ進歩的なものである。
(C・G・ユングの「個性化」に近い概念として)
人は、発達の過程に従って見聞が広がっていくものだし、成長の度合いによって識もまた変化し続ける。つまり、どんな場合にも言えることは、「今の時点では・・」という限定された範囲で語られるものだということである。これもまた絶対に外してならない前提のひとつである。パーソンズが言う「天職」なるものが本当に存在するか否かは判らないが、「素質」や「才能」という言葉と並んで適職という捉え方はおそらくありなのだろう。
企業内の人事において「適材適所」が明確に成されていることは、会社組織にとっての強みであることに間違いはないし、
「企業は人なり」という言葉に異論はない。向かない仕事に苦慮するよりも、自分の才覚を発揮できる場である方がいいのは確かだ。
ところで、僕は進路指導という言葉には以前から大きな違和感をもっているのだが、仮に人が何らかの目的を持って生れてくるものだとしたら、周囲の大人たちはそれを強制的に捻じ曲げてしまうという罪を犯していることになるだろうし、本人も心の奥底で何らかの疑念を捨てられずに生きているはずである。生まれる以前に意識が存在するかどうか僕には分からないので無責任なことは言えないが、仏教的な解釈としての「業(カルマ)」を軽視せず捉え直せば、現在の「進路指導」の在り方に対する不信感は募るばかりだ。
本来「エディケーション」とは、汲み出すとか引き出すという意味らしいが、誰かが間違って「教育」と誤訳してしまったがために、「教える」とか「指導する」といった具合に「入れること」にされてしまったのだという。ましてや、こと進路に関するかぎり「相談」ではあっても、「指導」などできるはずもない。
となれば原点に立ち返り、無地に色を塗る意味での「育てる」ではなく、もともと持ち合わせている要素を活かす意味で「素立てる(そだてる)」と換言すべきなのかもしれない。おそらく進路指導を行なっている教師に悪気はないのだろうし、生徒の将来を真剣に考えようとしているのだろうが、少なくとも彼らが「キャリア」について理解していない状況は否めないし、そもそも教師自身がキャリアに向き合っているとは思えない様子が覗える。
なぜ自分が教師という職業を選択したのかについて明瞭に自覚されている方が何人おられるか疑問である。(だからこそ、なおさら「指導」と言う言葉に違和感が湧くのだ。)キャリア形成はエリクソンの生涯発達とも重なる概念であり、
成人して就職が決まったからといって、そこが終着駅というわけではない。現時点で自分が何を目的に生きているのか、なにを追求しようとしているのかといった「進行形」にある自分を自覚することなしに生徒のキャリア形成に関わることなどできるわけがない。
はたして「人生」とはなんなのだろう?いまの人生は、はたして自己決定で選択した経過と言えるだろうか。むろん、状況によっては不本意ながらも苦渋の選択・・ということもあろうが、人生に納得するために「生きるために何を為すか?」ではなく、「何を為すために自分は生きるのか?」という問いだけは忘れずにいたいものである。
(つづく)K.I