基礎編・理論編

文化に関するレクチャー|テクノファ

投稿日:2022年7月29日 更新日:

私(平林)は横山先生と2004年に初めてお目にかかりました。当時テクノファはISOマネジメントシステムの研修機関として、JAB(一般公益法人日本適合性認定機関)の認定を日本で最初に受けた第三者審査員養成講座を開設しておりました。当時、ISOマネジメントシステム規格には心が入っていないと感じていた私は、その時に横山先生にキャリアコンサルタント養成講座立ち上げのご指導をお願いしました。

横山哲夫先生は、個人が人生を通じての仕事にはお金を伴うJOBばかりでなく、組織に属していようがいまいが、自己実現のためのWORKがあるはずであるとキャリアコンサルタント養成講座の中で強調されていました。そして数多くの著書を世の中に送り出しています。

今回はその中からキャリアコンサルタントが知っていると良いと思われる「組織文化とリーダーシップ」を紹介します。

本記事はエトガー・H・シャインの著作「組織文化とリーダーシップ」を横山先生が翻訳されたものです。横山先生の思想の系譜をたどるときには、エドガー・シャインにかならず突き当たるので今回から横山先生の翻訳を紹介しながら彼の思想の系譜を探索したいと思います。

<ここより翻訳:2010年シャイン著>
(1)第3回目の年次総会:文化に関するレクチャーが大混乱
私は,変革とはマネジすべき段階としてとらえるべきだということを強調した。もちろん同時にターゲットを明確にし,さらに変革マネジャーを任命することが求められたが。この視点から言うと,第3回目の年次総会では,前進の状況をレビューし,それまでにどのような問題にぶつかったかをチェックし,成功とすぐれたイノベーションを共有し,必要であれば一部のプロジェクトを再検討し,さらにもっとも重要なこととして,経営委員会メンバー,事業部門の長,各国支社の長の間に新しい役割の関係が設定されたことを発表するという願ってもない,自然の機会がもたらされたのだ。

本社組織は,各地域の日々のオペレーションに介入しすぎていた。しかし組織が縮小され,リストラクチャーが実行されると,本社部門の役割をさらに戦略的な役割にシフトし,ライン執行部門が日々のマネジメントに専念できることが望ましいと判断されるようになった。いまや各国マネジャーがより大きな責任を担うことを良しとし,さらに経営委員会も戦略を扱う役割の重要性を十分に認識しはじめていたので,このシフトは十分に実現可能であった。

まず最初のセッションで私は,数多くのマネジャーに対するこのプロジェクトにおける経験をインタビューした結果にもとづいて,方向転換プロジェクトの進捗状況をレビューするように求められた。このレクチャーは,参加者に変革理論を復習してもらい,数多くの例を紹介しながら参加者各人の経験とフラストレーションを検討し,革新的なマネジャーによっていかに抑制的なフォースがマネジされたかを示し,さらにグループに対して,企業文化を分析すべきフォースとしてとらえる考え方を紹介することを目的としていた。私自身の観察とシステマティックな面接にもとづいて,レクチャーの一部として,私はチバ・ガイギーで運用されている,重要な文化的前提認識のいくつかを紹介した。

このレクチャー内の文化に関する部分に対する反応から重要な洞察が生まれてきた。数多くの出席者は,私がほぼ正確にこの企業の文化をとらえていると受け止めていた。しかしアウトサイダーである私が,彼らの文化の一部を公にした点,さらに私が文化の一部を誤解し,また間違って解釈した点に対して,出席者はあまり良い感情を抱いていなかった。経営委員会の少数のメンバーは,私が役に立つコンサルタントではないとさえ判断した。私にとっては彼ら

の文化の前提認識を議論することによって,両極に分解された反応を引き出す結果を招いていたのだ。一部のマネジャーは私により近づいたのに対し,ほかの一部は私からさらに遠ざかっていった。そこで彼らの文化に対する私の記述が正しいか,正しくないかについての内輪の議論が巻き起こった。私自身の結論は,もしコンサルタントとしてこのような両極化現象を望まないのであれば,説教的な調子でその文化について自分の見方を発表するのではなくて,あくまでグループが自らの文化を分析することを支援すべきであった,というものであった。

文化と変革に関する私の総合的な発表のあと,プロジェクトの各グループがその進捗状況を短くレビューすることを求められ,さらに小グループに分かれてその意味を明確にしたうえで提案を作り上げた。ミーティングの最後のパート,プラニンググループの視点から言えばもっとも困難なパートは,経営委員会,事業部門のヘッド,各国支社のヘッドの新しい役割について,すべての人たちにどのように伝えるべきかという問題であった。経営委員会メンバーは,彼らがさらに戦略重視となり,個人の結果責任をさらに大きく担うという彼らに課せられた努力は単にそれを発言するだけでみんなに伝わるのか,という点に確信が持てずにいた。

そこでわれわれは,次の3つのステップを含むプロセスを計画した。(1)新しい役割に関する公式のアナウンス,(2)役割の再編成から生ずる意味に関する私自身によるレクチャー,そこでは役割ネットワークに伴う組織系統の特徴,さらに新しいシステムが機能するように各マネジャーが自分自身の役割を下方,上方,横方向に向けて再調整することの必要を強調する,(3)この企業の将来に向けて組織を合理化する新しい秩序から生まれる影響についてCFOが力強いスピーチを行う,というステップであった。ともあれ総会は興奮のうちに終了した。そこでは1年間にすでにどのような成果が生まれたか,どのような達成成果がすでに稼働しているか,経営委員会が自分たちのものとして受け止めた新しい役割から期待される改善はどのようなものか,といった点が確認された。また変革の全容を伝え,各国マネジメントが真剣に変革を受け入れることをたしかなものにするために,経営委員会のメンバーの小グループがすべての地域組織を訪問し,これから実施される変革について個人的に説明を行うこととなった。

本社組織が早期退職を通じて実際に縮小しはじめたこと,さらに各国組織にとって迷惑であったコントロール活動の一部が減りはじめたことを受けて,トップマネジメントは方向転換プロジェクトにおける新しい役割を真剣に受け止めているという明確なメッセージが伝わりはじめた。もちろん本社の社員の早期退職は著しく苦痛を伴うものであったが。人々が退職させられるという事実は,この企業では社員は一生のキャリアが保障されているとする,当然のものとして受け止められてきた前提認識が否定されることとなった。しかしこの退職が実行される際の高度に個人に特化し,さらに金銭的にも潤沢な処遇はもうひとつの基本的な前提認識,つまりこの企業は人材を大切にし,かつ可能な限り人材を傷つけることは避ける,という前提認識を補強するものとなった。

(2)第3年目に行われたアセスメント
第3回目の年次総会に続く期間の定期的な訪問で私は,新任の経営者開発マネジャーのジョー・ウエルズと一緒に働くことに大半の時間を費やした。ロイポルトは本社のリストラクチャリングの一環として早期退職を決めていた。私は方向転換に関連することで経営委員会のメンバーともときどき会っていたけれども,優先順位はウェルズを支援することに移っていた。彼は新しい役割について思考を進め,いかにしたら全体のプロセスをさらに向上できるのかを再検討していた。ロイポルトは彼の退職に伴う処遇の一環として,企業に対するコンサルティングの仕事をオファーされており,私と共同で進める研究プロジェクトの開発に取り組んでいた。

われわれは企業内のトップ200人のマネジャーのキャリアを研究することを提案した。この目的は彼らのキャリアのなかに不可欠の成功要因,逆に問題要因を見つけだすことであった。このプロジェクトは,私がテクニカル・スーパーバイザーとして行動することを条件に,経営委員会によって承認された。ここでも再び,私のコンサルタントとしての信用は私の科学における評判に深く関わっており,かつ科学上の実績こそ企業の意思決定における究極的な判断基準であることを思い知らされた。この研究には200人のキャリアの歴史にもとづく再構成の課題が含まれていたが,驚くべきことに,これらのキャリアの進展の過程に,機能組織の枠を越えた異動,または事業部門の枠を越えた異動がほとんど行われてこなかったことがあきらかになった。

これらの結果,さらにほかの結果についてのプレゼンテーションが経営委員会に対してロイポルトによって行われた。そこではいかに将来のゼネラルマネジャーを育てていくかについての重要な議論が促された。ここでの意思決定は,若いときの地域の枠を越えた異動と本社と地域との間の異動をさらに増やすが,機能組織間や事業部門の異動はなお慎重に扱う,というものであった。経営委員会のメンバーは同時に,ローテーションにもとづく異動は,それが有効であるためにはキャリアの早い時期に行われるべきだという結論に達した。さらに彼らは,キャリア開発の重要性についての明確なメッセージが全社に行きわたったあとにはじめて,このようなキャリア初期の異動が促されると考えた。

この意思決定にもとづいて,経営者開発に関する半日のコースのデザインに取り組むことになった。この半日のコースは全社の500人のトップマネジャーに対して,定期的に実施されていたマネジメントセミナーにはめ込まれることとなった。キャリア初期のローテーションは制度として繰り込まれ,方向転換プロジェクトからのデータにもとづいてこの新しい制度が支持された。さらにシニア経営陣がこの結論を妥当なものとして認めたあと,ローテーションがしっかりと稼働しはじめ,このソリューションが全社に浸透しはじめた。また,このメッセージは経営委員会のメンバーが各セミナーに出席して伝えたけれども,その実施は地域マネジメントに任された。

この年にコクリンが健康上の理由で経営委員会の会長職を退任し,後任選びの問題が発生した。しかし経営委員会はこの問題をすでに織り込み済みで,すぐに新しい会長と副会長を選任した。新しい会長には科学者出身者を選んだけれど,副会長には方向転換プロジェクトで偉大な業績を残したCFOを選任した。2人ともチバ・ガイギーの成功を下支えする,科学と技術の前提認識を強く再確認した。「われわれは重要な変革を進めているけれども,以前と同様のわが社の文化を守り続けていく」と宣言した。

第3年目の終わりには,財務業績もかなり好転しており,利益の上がっていない事業部のリストラクチャリングも急速に進んでいた。各事業部はいかに早期退職をマネジすべきかを学習し,さらにひとつの事業部で余剰となった人材をほかの事業部へ移す過程で,各事業部間の協調の仕方も学ぶことを促された。たしかに最初の頃にこのアイデアに対して否定的な態度がまん延し,数多くのマネジャーから,その部門のベストの人材さえほかの部門で受けいれてもらえないといった苦情が何度も寄せられた。しかしこの態度も,「われわれは人材に適切な職務を見つけるために最大の努力をせずに彼らを放り出すことはしない」という信念が,各事業部のセクショナリズムをしだいに駆逐しはじめたために,徐々に弱まっていった。各事業部を運営するために古い戦略にこだわり続けていたマネジャーは,そのアプローチにおいてより革新的であると判断されるマネジャーによってしだいに置き換えられはじめた。大幅な人員削減が求められ,さらに製品ラインのすべてを再設計することを求められていた事業部のあるマネジャーは,このプロジェクトで大きな成功を収めたと評価され,経営委員会のメンバーに任命された。

方向転換プロジェクトはその任務を果したと判断され,第3年目の終わりに終結が宣言された。さらになお変革が求められていたいくつかのプロジェクトは経営委員会によって引き継がれ,私自身はラインマネジャーが必要と感じたときに支援を提供するという「要請ベース」のコンサルタントを務めることとなった。たとえばかつて,利益の上がっていなかった事業部の新しいヘッドが多くの同僚が退任したり,他事業部へ異動させられたあとに,その事業部に残ったマネジャーたちがモラール(やる気)を低下させている問題に対して,私に支援を求めてきたようなケースであった。このヘッドは,彼の部門の怖れと無力感のレベルが,その部門を前進させることをきわめて困難にしていると感じていた。彼はチバ・ガイギーの古くからの流儀に従って,外部のトレーニングを導入して彼自身でこの問題を解決しようと努力したけれども,その方法では成功を収められなかった。そこで彼は私とのミーティングを持ち,別の解決法を求めてきた。チバ・ガイギーの文化と彼自身のコミットメントを考慮すると,彼は部門内でプログラムを作り,本社のトレーニング部門からの支援を求めるべきであった。本社のトレーニング部門は,チバ・ガイギーの文化に適合したプログラムをどのように設計すべきかを理解していたからだ。しかし彼は,彼の支援のために本社トレーニング部門を活用することは全く考えつかなかった。もちろん彼はこの部門の存在を知っていたし,その部門の何人かについては高く評価していたにもかかわらず,この部門の活用は全く頭に浮かばなかった。そこで私は,これらのふたつの部門の仲介役として,お互いが直接話し合うことを促すことができると判断した。このヘッドは私の提案に従い,翌年にはきわめて効果的な社内版のプログラムが開発されたのである。

次の2年間に私の参画は徐々に減っていった。方向転換プロジェクトの本社の人員削減ティームのヘッドが取締役会の会長となり,もっとも大規模なダウンサイシングが必要であった事業部の前ヘッドが経営委員会の会長になった。

この2人のマネジャーは,方向転換プロジェクトを処理する際に見事な才覚を発揮した。すべての変革はチバ・ガイギーにアウトサイダーをひとりも採用せずに達成された。私は経営者開発の課題に向けてウェルズと協力して取り組み続け,いくつかのプログラムを実施する側面で彼を支援した。また私の文化に対する知識が価値があると認められたプロジェクトに対して,米国支社と協力して仕事に取り組んだ。しかし企業が深刻な問題を抱えているときにのみコンサルタントを活用するというチバ・ガイギーの前提認識はなお色濃く残っていた。そして1988年以降は私の参画はゼロとなった。
(つづく)平林

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