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このコーナーは、活躍している「キャリアコンサルタント」からの近況や情報などを発信いたします。今回はキャリアコンサルタントのS.Sさんからです。
◆『個人を潰す成果主義』
今回のオリンピックもまた、熱き戦いのドラマが繰り広げられる過程において、じつに多くの学びを残してくれた。
特に、怪我のために出場さえ危ぶまれた羽生の演技は、とにかく見事としか言い様のない素晴らしい出来ばえだった。
ほんの数ヵ月前に見舞われたアクシデントに挫けることなく挑んだ姿は、多くの人々にとって勇気づけになったことだろう。
だが、表彰台に上がることができた者にスポットライトが当てられるのは当然としても、惜しくも入賞を逃した者は注目されることなく帰国することを考えると、これほど結果によって明暗が分かれるものは他にないと言える。特にメディアの加熱報道ぶりは異様とも思えるほどで、個人が取得したはずのメダルを、あたかも日本が取得したかのような伝え方をするのも気になるところだ。
こうなると選手たちにとっても、国民の期待に応えなくてはならない・・とばかりにプレッシャーが増すことになろう。
さらに、メダルを取れなかったことが自分の問題だけでは済まず、試合終了後に謝罪しなくてはならないような流れになってしまっている光景に違和感を持つのは僕だけだろうか?
人生を賭けて挑み続けてきたのは羽生だけではない。カメラやマイクを向けられることなく、黙ってその場を立ち去った選手も多くいるのである。もちろん、結果がすべてだとは思いたくないが、実際のところこういった風潮が蔓延している状況は否めない。さて、成果主義的な評価方法が日本に導入され、一時的に多くの企業が取り入れた時期があったが、それが必ずしもワークモチベーションのアップに繋がったかと言えば、そうではなかった。
なんとなく調子よく事が展開し、運が良くてもマグレでも、とにかく営業成績さえ良ければ給与に反映されるが、逆にどれだけ努力しても結果が出ず、評価の対象にならなかったとなれば、誰であっても徐々にヤル気を失っていくことになる。
これは人材(人財)の育成においても極めて重要な部分であり、如何にヤル気を引き出すかというテーマを主に置くならば、成果だけではなく、そこに至るまでのプロセスを認める必要がある。つまり、良き成果も好結果も本人にとって「頑張って取り組んだ甲斐があったなあ」と感じる必要があり、その感覚こそが次回に向けての活力源となるのだ。
以前にも書かせて戴いたことだが、こと育成に関して言えば、対象が子どもであっても大人でもそこに違いはない。結果を褒めることよりも、そこに至るまでのプロセスを認めることが重要なのである。そしてまた、そのプロセスを振り返ることにこそ自己成長の鍵がある。ここでひとつ重要なことは「反省」には何の意味もないということを理解しておくことである。
そう聞くと驚かれるかもそれないが、反省は自らの「行為」にのみ焦点が当たってしまいがちなところに問題がある。
また、「反省」の多くは「良からぬことをしでかした」、または「失敗した」という前提において行なわれるために、他者に対してだけでなく自分に向けても防衛的になるからだ。実際に頭の中では言い訳や釈明ばかりが飛び交っているだけで、相手や集団から非難されず許されることだけに躍起になってしまう。すなわち、建設的な意味では何ら価値のない時間を過ごしてしまうことになる。それゆえ、できれば「反省」ではなく、善し悪しの評価をいったん脇に置いた「振り返り」を行なったほうがよい。
「振り返り」は、無駄に防衛を喚起することもなく自分を冷静に俯瞰することができるうえに、過去の自分を対象化すること(客観視)が可能となるために、自己に対する文脈的理解と洞察、つまり「気づき」を促すことができるのである。ついでに言えば、この自己洞察にとって、もっとも障害となるのは他者からの助言や上から教えられることである。たとえば、ミステリー小説を読んでいて、真犯人は誰なのかと想像に耽っている際に、とつぜん横から「こいつが犯人だよ!」とネタバレになってしまうことと同じである。「教育」という言葉は「エデュケーション」の誤訳ではないかと言われて久しい。
そもそもエデュケーションとは、引き出すとか汲み上げるという意味であり、教えるなどというニュアンスは含んでいなかったはずである。それを誰かが誤って「教育」と翻訳したことによって、要らぬ誤解が生じてしまったのだろう。「若手の社員がどうにも指示待ち人間ばかりで困る。彼らには主体性が欠けている。」と指導に悩まれている声を聞くことが多いが、小学校から大学に至るまで当たり前のように行われている「教えられる授業」にこそ問題があるのではないだろうか。
いま改めて「育成」について、再考してみる必要がありそうである。最後になったが、ここで話を戻そう。
オリンピック選手に限らず誰に対しても言えることだが、他者のためではなく、ぜひ自分自身のために夢を挑戦してほしいものである。
(つづく)平林