キャリアコンサルタントが知っていると良いと思われるサニー・S・ハンセンの著作「キャリア開発と統合的ライフ・プラニング」を紹介します。
★HRD(人的資源開発)の新しい役割
HRD(人的資源開発)プログラムの多くが、今現在はリストラによるアウトプレースメント(会社都合によるリストラの対象になった人の再就職)や管理者と役員の業績評価に重点を置いているが、肯定的な面として、より高い生産性は、人間的欲求に関心が向けられ、より満足して仕事をする労働者と関係することを認めたことである。当初は、フレックスタイム制、カフェテリア的な福利厚生、ジョブ・シェアリング、奨学制度、キャリア・プランニング・ワークショップ、ワーク・ファミリー・タスクフオース、非中央集権的意思決定、トータル・クォリティ・マネジメント(TQM)、総合的経営資源活用、ハイパフォーマンス・ワーク・チームなどの職場の取り組みに重点が置かれていた。HRDプログラムは、労働者のニーズと組織のニーズを満たそうと模索し、1人ひとりが組織において最も幸福で、最も生産的であるような人間的な活用法を追求している。新しい仕事の構造-たとえば労働者を3種類(専門家、契約労働者、臨時雇用労働者)に区分する「シャムロック」型の組織(Handy,1996)、相互関係的なキャリア(MirvisとHall,1994)、個人主導的キャリア(Hall,1996)、多様性に価値を置くプログラム(Walker,1996)など-はまた、人的資源の専門家に対する新しい役割と訓練をもたらす。会社のためのアウトプレースメントや業績評価といった一部のHRDプログラムとは異なり、将来のHRDは、もともとの人的資源開発の焦点であった人間的なニーズと同様に、Hallが挙げた新しい関係論的な目標に集中するようになるであろう。
★新しい心理的契約
職の保障の欠如は、雇用者と被雇用者の間の関係に大きな変化を引き起こした。両者の間の古い形の契約-「あなたが私のために一生懸命働いてくれるなら、私はそれにふさわしい賃金を支払い、安心と福利を提供しよう」-はもはや存在しないと信じる人もいる。実際に、福利、後継者の序列、出世の階段-特に管理者のための-を伴う生涯にわたる仕事は、もはや多くの組織で存在しない。そのような契約は、新しい働き方のパターン、新しい働き方の倫理に置き換えられている(Goman,1991)。
David Noer はHealing the Wounds(1993)のなかで、人員削減された企業で生き残った労働者の苦悩について書いている。彼は、そのような労働者が失職に対処する難しさと職の保障を失うことへの不安と同様に、活性化されエンパワーする組織のなかで新たな意味と方向を見つけ出すことの難しさを記録にとどめている。
□家族における変化を理解する
多くの西欧諸国で、多元的な家族形態が存在することがますます明確に認識されるようになっている。女性の労働力へのすさまじい流入が家族構造変化の唯一の理由であるとは言えないが、それは、20世紀の劇的な潮流の1つとなっている。おそらく、この変化が最も重大なのは合衆国で、さまざまなタイプの家族があることは極めて当たり前であるが、それらが、特に俗に言う「伝統的な家族の価値観」を信奉する人々に、常に受け入れられているわけではない。
★ひとり親家族
ひとり親家族の増加にともない、アメリカ社会にはかぎっ子に対する当然の心配がある。母子家庭の多くは貧困のなかに暮らし、賃金のために働くか子どものために家にいるかという選択もないほど厳しい現実である。米国労働省は、1992年から2005年までの女性参画の伸びは、それ以前の10年間ほど急速ではないだろうが、2005年までに女性が全労働力の47%を占めるようになると示唆している(U.S.Department of Labor,1993)。重要なことは、最も増加している女性労働者が、主たる妊娠可能時期にあたる25歳から34歳の年齢層であることである。
★共稼ぎ家族
労働力市場推計には、家族形態の変化に関するデータは含まれていないが、その変化については、他の文献(Browning と Taliaferro,1990;Hage,Grant と Impoco,1993など)、特に家族に関する文献で報告されている。それによると、細かな数値は異なっているが、伝統的な「核」家族-父親が雇用され、母親は家にいて、子どもが2人いる-は減り続け、すべての家族形態の10~15%を占めるにすぎなくなっている。
そのような家族が主要な形態となり、全家族の50%を占めた1980年が「転換点」となった(Bernard,1981)。しかし、すべての共稼ぎ家族で平等なパートナーシップが実現されているというわけではない。Bernard は、農業時代の主要な家族形態は、夫と妻が共に農場で働くというものであったと指摘する。工業化が進むにつれて、男性が都市の工場に働きに出て稼ぎ始めた。この形態は、実際はたったの150年間存在したにすぎない。おそらく、国勢調査局が調査用紙から「世帯主」という表示を外したときに、良き扶養者という役割は弔鐘がならされ、共稼ぎ家族が主要な形態になった。
(つづく)平林