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キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.110(2022年3月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"鈴木秀一さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
   近況や情報などを発信いたします。◆

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定着率の低さは企業体の危機を語っている

仕事上、学生の進路や若い親世代の就労支援に関わる機会が多いが、厚労省が問題視している
「定着率の悪さ」については私も実感しているところである。
 高校や大学、またはハローワークでは「就職率」ばかり気にかけているようだ。
だが、むしろ問題なのは3年を待たずに離職してしまう割合が全体の3割近くに及んでいることで
ある。
彼らに「なぜ辞めるのか?」と問えば、1「今の仕事が自分に合わない。」とか、
2「なぜ、このようなことを続けているのか分からなくなった。」といった理由が多い。
これはどちらにしてもキャリア教育の失敗というか、うまく機能しなかったことに尽きるのだろう
が、雇用する側から見れば、彼らはレジリエンスが低く、ちょっとでも注意を受けたり同僚に
キツい言い方をされただけで翌日から出社しなくなったなどの様子から、「とにかく辛抱が
足りない」「最近の若者は忍耐力がない。」という一方的な評価だけで片付けられているようだ。

ただ、辞めた当人の話を聴くかぎり1や2以外にも「仕事の内容は好きだったが人間関係が辛くて
我慢できなかった。」「上司にこんな酷いことをされた。」といった訴えも多い。
就職活動を行なうにあたって事業者と労働者のマッチングは重要な項目のひとつであり、職務の内
容は言うまでもなく、給与体系や交通費の有無、または福利厚生などを含めた条件が確認されるの
は当然としても、こと社内の空気や集団内の人間関係については実際に入社してみなければ判らない。
しかしながら採用する側は、職場の雰囲気や社風をさほど重要な問題として認識していないように
思える。
従業員のワークモチベーションを高め、生産性や業績を伸ばすには上記以外にも様々な要因がある
だろうが、人事配置的な配慮も含め、この部分に重きを置いている事業者はどれだけいるのだろうか。

経営学や産業心理学を学ぶ者であれば必ず出会う項目に「ホーソン実験」というものがある。

以下、「コトバンク」より抜粋~
『ホーソン実験とはアメリカ電話電信会社の傘下にあったウェスタン・エレクトリック社のホーソ
ン工場において1924年から1932年まで8年間にわたって行なわれた一連の実験的研究をいう。
当時隆盛であった科学的管理法の影響下で,室内の明るさを上げれば生産能率が高まるという仮説
を実証するための照明実験が,1924年から同工場で行なわれた。
しかし,2年半に及んだ実験からは,照明条件と作業量との間に規則的な対応関係を見いだすことが
できなかった。
この実験に続いて1927年には継電器組立作業実験が1928年には電話部品に用いる雲母ハク離作業実
験が始まり,物理的な作業条件の変化が作業量に及ぼす影響が観察された。
しかし,これらの実験からも物理的条件の変化と作業量の変化に規則的な関係は見いだせず,
それよりも自分たちの仕事ぶりが周囲から注目されているという意識や作業を通じてお互いの間に
生まれた連帯意識が仕事への意欲すなわちモラールを高め,作業量の増加につながることが明らか
にされた。
このように実験変数の直接的な効果ではなく,実験に参加し周囲から注目されているという意識が
被験者の行動や成績に影響を与える現象は後にホーソン効果とよばれるようになった。
これらの実験がもたらしたものは,生産性に及ぼす従業員の意識や感情,モラールの重要性であった。
そこで,これまでの物理的諸条件の統制という研究方針を転換し,従業員のモラールを規定するも
のは何かを探ることに焦点が当てられ,工場内の従業員延べ2万1000名を対象に面接調査が行な
われた。
その結果,仕事への意欲や感情は,日常生活や職場の人間関係に強く左右されること,職場の仲間
意識や監督への感情が生産性に強く影響することが明らかにされた。
こうした,従業員のもつ意識や感情や意欲に着目し,生産性に及ぼす職場の人間関係の重要性を説
く考え方は,人間関係論とよばれ,その後の従業員管理の思想や施策に大きな影響を与えた。』
______________
~引用おわり

 私も過去において幾つかの事業所に身を置いていた時期があるが、同僚の連中とはうまく関係を
作れてはいたものの、上司との折り合いが悪く悩むことが多かったし、会社の方針や経営者に対する
不満が多々あったことを記憶している。(会社のためを思って上司に意見を伝えても上層部には届
かなかった。)
 自らを振り返れば、そういった悩みを抱えることに嫌気がさしたことが個人事業主として生きて
いこうと決意するきっかけになったと思う。
 とかく人は自身の経験則や成育歴を以て相手を測る傾向があるものだ。
つい「私なら・・」とか「ふつうは・・」といった具合に、常に自分を尺度として物事を観ていると
いっていい。
しかし、それはあくまでも「自分にとって」でしかなく、目の前にいる他者は別の人間であり、
自分の経験則や体験が通用するわけではない。
 チームビルディングを成し得るためには、個々の違いやユニークさを認める「対話」から始める
必要があるのだが、企業体が個人の集合で成り立っているにもかかわらず、もっとも重要な人間関
係が軽視されていては不可能だ。

 部下に対して「伝えようとすること」には熱心であっても「受け取ろうとする姿勢」に欠けていては、
そこに交流など生まれるわけがない。むしろ新入社員だからこそ気がつく発見があるだろうし、
他の事業所から移ってきた立場なればこそ、新鮮に映る光景もあるだろう。
 言わば、マンネリ化した状態にメスを入れ、新たな展開を生んでくれるのは他でもない新人たちな
のである。
人の上に立つ者ならば、このことを十分に理解しておかなくてはならない。
 だが、多くの場でそれができずにいるのは、昔から日本に根付いている常識としての「郷に入って
は郷に従え」といった因習が災いしているからではないかと思われる。
 これは未だ残る旧いシステムとしての「年功序列」や「先輩~後輩」といった上下関係に起因して
いるようだ。
具体的な例としては、よく聞かれる「主(ぬし)・お局様(おつぼねさま)などといった呼び方もあ
る。」の存在が、所謂「新人いびり」が横行する元凶となっており、せっかくの「新しい風」が封じ
込められてしまう悪しき状況を生み出している。
 これら歪んだ人間関係に共通しているのは、なにより始めから対等性が成立しておらず、意見する
ことさえ許されていないことに加え、なぜか社内環境を悪化させている張本人(古株の者たち)が
優遇されていることであろう。
いくら長く勤務しているからといって、そこに「慣れ合い」的な感覚を持ち込んでしまっては正当な
評価などできまい。
要領のいい提灯持ちだけが生き残れるような会社では、せっかく入社してきた新人が潰れていくだけ
であり、そのような者は企業全体にとって害でしかない。
 今どきの人事は、単に適材適所的な能力評価ばかりでなく、個人の人間性や人格的な部分をも含め
たものであってほしいものだが、経営者自身がその重要性を理解していなくてはワークモチベーショ
ンを高めるどころかハラスメントの温床となる危険性を孕んでいる。

 私としては特に辞めてきた方々に肩入れしたいわけではないが、企業のカウンセラーや就労支援を
行なってきた経験から言わせて戴くと、彼らの苦しさや落胆ぶりを観ているかぎり
必ずしも忍耐力がないとか我慢強くないといった短絡的評価だけで事が済むとは到底思えない。

 さすがに応募する側も幾度か痛い目に遭ったことで懲りており、常に募集を行なっている会社は
受けないほうがいいことを弁えているし、特に「急募」と書かれたポスターには反応しないことが
通例となりつつある。
悲しい現実ではあるが、特に店長・主任・係長・課長といった役付けに関しては業績よりも人望の
有無やリーダーとしての資質に注目した人事を意識したほうがいいだろう。

いま、まさに社会は大きな転換期を迎えている。
 それは産業界のみならず行政も司法も福祉も医療も教育も、ありとあらゆる分野において変革が
迫られていると言っていいだろう。
 かといって闇雲に何かを変えればいいわけではなく、現状に対して可能なかぎり丁寧にアセスメン
トを行ない、状況における問題点を洗い出す必要がある。

 いまこそ「人材」から「人財」への認識的転換が求められているのである。


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.109(2022年2月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"石山 聖子さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
   近況や情報などを発信いたします。◆

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皆さん、こんにちは。
キャリアコンサルタント養成講座卒業生の石山 聖子(いしやま・せいこ)と申します。
私は、2018年1月から33期として、テクノファでキャリアカウンセリングについて学び、
同年10月に資格を取得いたしました。

当時活動していた子供向け傾聴ボランティアを通じて小澤先生との出会い、
先生が「キャリアコンサルタント」の存在と、
この「テクノファ」を紹介してくださったことがきっかけです。

3年前の今頃を思い返すと、
平日は、保育園に通う娘2人を育てながら働くお母さん、
週末は、キャリアカウンセリングの勉強に全てを費やし全力投球していました。
「毎日大変だけど、なんだか楽しい!」そんな、なんとも幸せな半年間でした。

毎回、私の知的好奇心を大いに刺激してくださった講師の方々による授業と、
受講後の充実感。
1泊2日のCDW(キャリアデベロップメントワークショップ)で、
自分のキャリアと真剣に向き合ったひと時。
グループワークでワイワイ話し合ったり、実技試験に向けて一緒に面接練習した
同期という仲間の存在。
そして、興味のある領域について学びたいという私の想いを十分に理解し、
家事や育児に全面協力してくれた主人。
実技試験で不合格だった時、落ち込んでいる私を心から励まし応援してくれた子ども達。
あの時に得た"学び"や"出会い"は、私にとって本当に大きな財産となりました。

現在、私は日用品メーカーで人事系の企画の仕事をしています。
「身近な商品で、女性が働きやすそう」と志望動機に書いたことを覚えています。
入社後は、秘書や広報などを経験し、その間2回の産休・育休を取得しました。

入社から20年以上。
自ら手を上げて切り開いてきたキャリアではありませんし、大きな成果を残したわけでも、
素晴らしい実績もありません。
自分には専門分野がないと、焦りもがく時期もありました。中年の危機も経験しました。

そのような中、テクノファでキャリアの本質について学んだこと、
また実際に自分自身がキャリアカウンセリングを体験したことで、
自分の内的キャリアに目を向け、自分らしいキャリアゴールを見つけ、
それに向かって自分なりに進んでいけば良いのだという気付きを得ることができました。
日々の小さな成果に達成感を感じる、人と人との繋がりに喜びを感じる。
少しずつですが、これが私の内的キャリアなのだという自覚が浮かび上がるようになってきました。

資格取得を目指して始めたキャリアカウンセリングの勉強でしたが、
自分自身の職業観やキャリア形成について、真剣に向き合い、
前向きに捉えることができるようになったこと。これが大きな学びであったように思います。

「自分のキャリアに自信が持てない」
「これからの仕事をどうするか悩んでいるが、気軽に相談できる人がいない」
「一人で孤独を感じている」・・・。
価値観の多様性が進み、リモートワークが当たり前の環境になりつつある昨今、
そのような人が最近特に増えているように感じます。

キャリア相談の専門家であるキャリアカウンセラーが、
より多くの人にとって身近な存在になればと思います。
今後は、さらに学びを深め、本格的に支援をする立場に成長したいと考えている処です。

先日、一流商社にキャリアカウンセリング室を立ち上げた浅川正健さんの著書
「企業内コンサルティング入門」を拝読いたしました
読み進めるうちに
「いつかウチの会社にもキャリア相談室を作りたい!」そんな思いが募ってきました。
実現に向けてはかなりハードルが高そうですが、しっかりと温めて育み、いつか実らせたい私の目標です。

最後に、CDWの時、私が書いたキャリアゴールをご紹介します。
「人生の節目や帰路に立ち、悩みもがいている人の支援を中心軸に活動すること」
この目指すものに向かって、私はどのように進んでいくのか。
一度きりの人生、楽しんでいこう!


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.108(2022年1月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"鈴木秀一さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
   近況や情報などを発信いたします。◆

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あなたに「友だち」はいますか?
「誰も話せる相手がいない」日本の既婚男性が次々と発症する"見えない病"の正体
という記事に
目がとまった。
『退職した瞬間に、ぱったり交流が途絶える友だち』といった副タイトルがついている。
以下、Webニュース「PRESIDENT Online」より抜粋

「会社を辞めてから友だちがいなくなった。どうすればいいか?」
この質問は、まず、前提の認識が違っていると思います。「友だちがいなくなった」というのは、
元は「友だちがいた」という前提です。
しかし、こうした質問をされる方は大抵「そもそも友だちなんて元からいなかったのに、それに気づいていない」
場合が多いのです。

彼らのいう友だちとは、あくまで会社の同僚や上司・部下という「自分の周りにいた人」の事を指していて、
決して友だちではありません。
もちろん、会社の中で友だちをもつ人もいるでしょう。頻繁に飲みに行ったり、休日にゴルフに行ったり、
場合によっては、家族ぐるみで海水浴や旅行に行く間柄かもしれません。
しかし、そのほとんどが会社を退職した瞬間に、ぱったり交流が途絶えてしまいます。
会社といういわゆるひとつの「囲いのあるコミュニティ」の中に互いに所属していたからこそ、
たまたま行動を共にしただけであり、その囲いがなくなってしまえば、疎遠になるのも無理はありません。
つまり、会社という「所属するコミュニティ」の中の人間関係の多くは、その所属がなくなると同時に
消えてしまうものなのです。
____________

これは、きわめて重要な問題である。
予め断わっておくと、私としてはジェンダー的な意味でも「男女差」という枠で測る気はないしステレオタイプ的な
観方をするつもりもない。読者の皆さんにはあくまでも解りやすい一般的傾向例として捉えて戴ければ幸である。

さて、男性の多くは年齢を問わず、何らかの共通する話題、例えば趣味とか仕事などを通じてやり取りすること
(会話)ばかりで「私とあなた」について話すこと(対話)が少ないように思う。
だから、いくら長い付き合いであっても互いのプロフィールについては何も知らなかったりする。
趣味仲間や遊び仲間、仕事仲間(同僚)は大勢いても自分のことを話せる相手はおらず、
私的な悩みを打ち明けられる友人もいない。

学校教育現場に関わっている私の印象で言わせてもらえば、このような傾向はすでに小学校の
低学年の段階から顕在化しているように見える。

女子の多くは「私ってさあ・・」とか「あなたって・・」から始まる「私とあなた」の"対話"が目立つが、
一方の男児たちといえば「これすげえだろ!おお~すげえ!」、
または「昨日のあれカッコよかったよな」といった具合に自分たち以外の何か(モノや出来事)について
共有する"会話"が主なようである。

むろん男児の中にも家庭環境の場に姉や妹が存在することによって「私とあなた」的なやり取りに
慣れている者がいるだろうが、それでも仲良しになるための前提条件といえば共通の趣味であったり
好みのスポーツが同じであったりと「共通性」が中心的な役割を果たしていると思われる。

幼い子どもたちにとって共通であること(一緒だね!)は関係の構築において重要な役割を果たしており、
これについては女の子も同様のようだが、彼女たちは時間の経過と共に対話を重ね、
徐々に「私とあなたの違い」を楽しめるようになっていく。

そこで交わされるやり取りでは「へえ~」とか「うんうん」、「そうなのかあ・・」などの感嘆詞を以て互いの
差異を受け入れながらも認め合い、親近感と共に深い関係が構築されていくという流れである。

しかし、男性の場合はその後もさほど発展することなく、青年期は言うに及ばず壮年期に至ってもなお
「〇〇について」、「△□とはどういうことか」というように、せっかく時間と空間を共有する機会を得ても
自分たち以外の「何か」について語り合うばかりだ。

いかに数年来の旧友であっても、互いの家族のことや現在に至るまでの経緯については何も知らない
というならば、これまで自分らのことを話題にしたことがなかったことになる。

そこには議論あり、討論あり、対立あり、または交渉ありなのだろうが、少なくとも「私とあなた」が
主なテーマとなる"対話"ではなく、所詮は思考的かつ自我レベルの表面的やり取りでしかない。

少なくとも心情的な関りは薄く、私的な感情を表出できる場には成り得ていないのではないだろうか。
そんな彼のことを軽々しく「僕の親友の〇〇さんです。」と紹介することなどできないはずだ。

これを「友だち」といってよいのか?という疑問が今回のテーマである。

ただ例外的なものとして、幼馴染であるが故に気心が知れているという安心感が土台にあるために
遠慮もまた不要!という関係もあるのだろうが、
これもまた単に習慣化によって生まれた「慣れた関係」でしかない。
そこでいったい何を語り合うのか?が問われるべきであろう。

私は予てから、これこそが男性の自殺が多い要因のひとつではないかと思っている。
何かに行き詰まったり、窮地に追い込まれた際に、
はたして無条件にSOSを発することができる相手がいますか?
ということである。
おそらく日頃の関係性の中で情的な開示が為されていなければ難しいと思われる。

むろん両者間に利害関係や駆け引き的な要素、または上下関係が含まれているのであれば、
自分の弱みを相手に曝け出すことなどできないだろう。
友人関係が成立するためには対等性が確保(確約)されていることが大前提なのである。

この記事は自己理解的な意味を込めて男性の方々に読んで戴きたいのはもちろんだが、
ぜひ女性たちにも知っておいて戴きたい。

男女共同参画というスローガンが今後も形骸化せずに発展し続けるためにも、先ず男女同士が
互いの傾向や性質を理解し合い、両者が共にそれを受け入れてこそ成立すると考えられることに加え、
その理解度に比例して深まるものではないかと思うからである。


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.107(2021年12月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"木下城康さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
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私が「わたし」に出会う場をつくる 木下城康
みなさま、こんにちは。

テクノファ、キャリアコンサルタント養成講座35期の木下城康(きのした じょうこう)です。
キャリア心理学の研究者で、日本キャリア・カウンセリング学会理事もしています。
※個人プロフィールは、こちらhttps://note.com/altsaxjoko/
※公式プロフィールは、こちらhttps://www.moralogy.jp/research/kinoshita/

臨床では、2級キャリアコンサルティング技能士(国家資格)を取得後、認定NPO法人キャリア・
カウンセリング研究会でキャリアカウンセラーをしています。
また、今年からはテクノファで国家資格キャリアコンサルタント実技試験対策講座のお手伝いも
させていただいています。
※キャリア・カウンセリングの窓口はこちら、https://npo-jcc.org/careercounsiling20210409/

今回は私がキャリア支援者を志す経緯と、研究と臨床活動の近況報告です。

目次
1.キャリア支援者を志すきっかけと、経緯
2.研究と臨床の場でおきていること
3.これからの「わたし」のキャリア支援
4.おわりに―謝辞

1.キャリア支援者を志すきっかけと、経緯
 (1)マーク・サビカス博士との出会い
2016年にアメリカ(シカゴ)で開催された全米キャリア発達学会(NCDA)でマーク・サビカス
博士の講演を聞く機会がありました。それがキャリア支援者を志すきっかけになりました。

学会期間中、私は日本のキャリア教育や支援に何が欠けていて、これからどういう方向に
進んでいくのか集中的に考えることができました。
その時間が、なんとなく感じていた違和感に整理をつけるきっかけを与えてくれたと思っています。

帰国後、その違和感を整理して、言語化して、まとめる作業にとりかかりました。
(後に出版された論文はここから読めます 
https://www.moralogy.jp/wp-content/themes/mor/img_research/80_Kinoshita.pdf)

 (2)キャリア構成インタビュー(CCI)との出会い
 2017年は、ケント大学(アメリカ・オハイオ州)で開催されたサビカス博士らが主催する
キャリア支援者向けの研修会に参加しました。

そこで、わたしはキャリア支援の具体的な方法のひとつであるキャリア構成インタビュー(CCI)を
体験しました。サビカス博士のキャリア面談を間近にみたのです。
この体験は、わたしのキャリアを方向づけるものとなりました。

特に惹かれたのは、まるでジャズ音楽のアドリブのように、
自由自在にアレンジをしながらもテーマから外れないところでした。

(3)キャリア支援者、キャリア研究者になるまでの経緯
 ケント大学から帰国後、私は早速に学んできたキャリア実践を始めることにしました。
そのときに選んだのが、このテクノファの養成講座でした。
他よりも国際学会でお見かけする先生が多かったからです。それが2018年秋のことでした。

その後、2019年に国家資格キャリアコンサルタント、2021年に
国家資格2級キャリアコンサルティング技能士を取得して、
認定NPO法人キャリア・カウセリング研究会のキャリアカウンセラーに登録しました。
これで、日常的に臨床ケースを持つことができるようになりました。

また、研究面ではアメリカで学んだキャリア実践の成果を日本産業カウセリング学会
(現:日本キャリア・カウセリング学会)で報告したところ、学会賞(奨励賞、2019)
を受賞することができました。

2.研究と臨床、教育の現場でおきていること
 さて、このようにこれまでの歩みを振り返ってみますと、私が帰国後に研究と臨床、
教育の現場でやろうとしてきたことは、本稿のテーマに掲げた
『私が「わたし」に出会う場づくり』でした。
これは、キャリア支援者・研究者として一貫してきたと思います。

少しだけ、テーマの説明をさせてください。

 ここでいう「私」は社会的なアイデンティティを指しています。会社員、家族の一員、市民など、
私たちが所属している組織や、関わる人たちとの人間関係から私たちの役割を規定するものです。
一方で、ひらがなの「わたし」はここでは本当のわたしを指しています。

私(木下)のキャリア支援に来談される方の多くは、社会的アイデンティティとしての私と私の役割、
あるいは社会から要請された役割としての私と、素の「わたし」の間に何らかの葛藤を抱えている
ことが多いです。サビカス流にいえば「わかっているけど、考えたこともない」状態にある、
というプロセスです。

木下のキャリア支援では、この「私」がホンネの「わたし」に出会う場所ときっかけを提供している
のだと思っています。いつものことではありませんが、来談者の「私」がホンネ「わたし」に
出会えた瞬間に立ち会えることは、この道に進んで良かったと心から思える出来事です。

3.これからの「わたし」のキャリア支援
 ここまで、ひらがなの「わたし」はホンネを強調したいときに使ってきました。
そんな「わたし」のこれからのキャリア支援・研究について述べます。

2017年にアメリカから帰国する私たちにサビカス博士はこんなことをいっていました。

「今の私の面談と、今のあなたの面談を比べないでください。もし比べるのであれば、
30年前の私の面談と比べるのがいいでしょう」

サビカス博士の面談は、30年以上の経験と5,000人以上のクライエント、さらに学問的な背景に
裏付けられたもので、まさにサビカス・マジックと呼ばれるにふさわしいものでした。
自然体でいて、奥行きがあり、深みがあるのに短時間で終わる。

いつか私も、あんな面談ができるようになりたい。わたしもいつか、国際学会で
クロージングセッションを任されるように・・・と。後者は流石に無理かもしれませんが、
前者は日々の研鑽のなかで、目指していきたいと思っています。

4.おわりに:謝辞
 最後になりますが、このテクノファの養成講座を受講したこともまた、
とてもいい刺激になりました。

まず、同期メンバーに恵まれました。今でも繋がりを持てていて、外出制限の前には
ほぼ毎月のように飲み歩いていました。また、ゴルフ好きのメンバーに誘われてラウンドを
するなかで、今ではゴルフが趣味の一つになってしまいました。

さらに、テクノファでの出会いが国家資格の実技講習や、更新講習を担当することにつながるとは、
夢にも思っていませんでした。

 他にも色々とありますが、このテクノファでの出会いに感謝して、これからもわたしなりの
キャリア支援をつくり上げていこうと思っています。
ありがとうございました。


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.106(2021年11月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"鈴木秀一さん"です。

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 絶望感を凌駕する実存的価値
朝のニュースで、この2年間における自殺者数が急増していることが伝えてられていた。
この2年間といえば、もちろん新型コロナの影響が大きいと思われる。

緊急事態宣言が発令されたために仕事を失い、一気に収入減に見舞われた方も多いだろうし、
先の見通しが立たないことに不安感が掻き立てられる者も少なくはないだろう。
家のローンなど多額の借金を抱えていれば尚更である。

もうこれまでの生活には戻れないと知った途端に生きる意欲を失い、
絶望感に苛まれ「あの世」に逃げ込んでしまいたくなる者が増えるのも無理はない。

だが、冷静になって考えてみればコロナ禍にかぎらず、
人間たちは歴史が始まって以来ずっと絶望感や悲哀と戦ってきた。

10年前にも巨大地震による津波被害によって家族や仕事を失い、
一気に絶望の淵に立たされた人は何千人といたし、
先の集中豪雨による浸水で建てたばかりの家屋が水に流された人もいる。

天変地異による不可抗力的な被災だけにかぎらず、ある日とつぜん自分がガンの末期で
あることを告げられたことで恐怖と絶望に突き落とされる者もいる。

しかし反面、世の中にはじつに様々な人間がいるもので、
このコロナ禍の状況でさえ好機と捉えて一発逆転を狙う者もいる。
事実、現状に反発するかのように業績を伸ばしている企業もあるのだ。
また、ガンの宣告を受けたことによって改めて人生の本当の意味を知る者もいる。
(不思議なことに、この気づきによってガンが治ってしまったりする。)

なぜ自殺を選んでしまうのか?
いかなる絶望に瀕しても何度でも立ち上がってくる者と何が違うのか?

このことは個人だけでなく企業体または企業の経営者にも言えることである。
要は、出来事をどのように認識し、どう捉えるかに拠って左右されるのである。

さて、そもそも私は何のために生きているのだろうか?
何が目的で此処にいるのだろうか?

この問題は人類が自己意識を獲得し「自己の存在」に気がついた瞬間から
ずっと持ち続けて疑問であり、既に2600年前の古代ギリシャにおいても
ソクラテスやプラトンらによって議論されていた普遍的テーマである。

画家のゴーギャンも「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。」
という大作を残しているが、自殺について考えるためには、
あえて存在の意味について考えてみる必要があるのではないだろうか。

人は、この世に生まれ出てから数年ほどの時間を経てからようやく自我に目覚め、
そこで初めて自分の存在に気づく。さらに成長の過程で様々な喜びや悲しみを体験しながらも
「想定観念」を得ることで、いつの日か自分もまた消滅する事実に直面させられる・・

つまり、自分の意志とは無関係にこの世に生まれ出てしまったのに、
その数十年後には望む望まないにかかわらず、とにかく否応なく強制的にこの世から
退場させられてしまうのである。

しかも厄介なことにヘタに想定観念が身についてしまっているが故に「退場(自らの死)」が
どのようなことなのかを想像できてしまうために、死ぬ瞬間に苦しみが伴うことや存在が
消滅してしまうことへの不安と向き合うことを余儀なくされる。

多くの者はこのような不条理に対して向き合うことを避けようとするわけだが、
どのような努力も無駄なのだと知ると死が直前に迫り来るまでの猶予期間をできるだけ
そのことに触れず、考えず、日常の忙しさに没頭することで逃避しようとするのである。
忙しいとう文字は「心を亡くす」と書くが、まさに自分を誤魔化すための
逃避的な行動なのかもしれない。

ひたすら不安から逃れようと可能なかぎりの富を蓄えることで将来に渡って身の安全を
図ろうとし、最先端の医療を用いて寿命を延ばそうと目論む者もいる。

また一方では自然の摂理を受け入れ、与えられた寿命に逆らうことなく平穏な人生に
満足しながら亡くなられる方もいる。

このように死に対する反応は人によって様々だが、
いずれにしても最期の時から逃れる術はない。
けっきょくは上記のいずれかを選択せざるを得ないわけだが、
今回ここで問題にしたいのは自ら人生に幕を降ろしてしまう人たちについてである。

特にガンの宣告の場合など、"死ぬのが怖いから自殺する"といった矛盾した展開が
起こってしまうのはなぜだろう。先のことを想定してしまうことで自ら不安を高め、
その不安から逃れようと自死を選ぶ・・人間ならではの愚かな行動である。

私自身、44歳のときに自営業において経営破綻に陥ったことがあるのだが、
もはや如何にあがこうともどうにもならないのだ・・と悟ったとき、自殺が頭をよぎった。
天井をボンヤリと見つめながら「ああ、あそこに縄をかけて首を吊れば死ねるのかなあ・・」
などと思ったものである。だが、なんとかこの世に留まることができた。

いったい何が自分を踏み止まらせたのかと問われれば、学生時代からずっと持ち続けてきた
「自分は何のために生まれてきたのか?何をするために生きているのか?」という疑問と、
現状について「なぜ自分は何も悪いことをしたわけでもないのに、
このような酷い目に遭わなくてはならんのだ!」という怒りを伴った疑問の2つだったと思う。

この2点について、どうにも納得が行かず、これらの疑問を抱えたままでは死ぬことが
できなかったのである。

今にして思えば「死を選ぼうとした瞬間」を実感できたことは、
とても貴重な体験になったと思う。
それ以降の私は常に「したいことをする」と心に決めて行動を選べるようになったし、
周囲に対する妙な遠慮もなくなった。

仕事上においても何ら臆することなく意見を言い、おおいに議論し、
自分の想いをさらけ出すことにも全く抵抗がなくなり、どのような場においても
「ありのままの自分」でいられるようになったのである。

しかも意外なことに、結果的には周囲からの信頼を得ることにつながったように思う。

以前、ある記事に書いてあったのだが、職業上「自分の死が間近に迫った者たち」を
見てきたナースたちが出会うのは、
「やりたいことを我慢してきたこと」や
「周囲に気を遣い、本当の気持ちを出せずにきたこと」、または
「愛する人に自分の気持ちを伝えなかったこと」など、
どれもが不本意ながらも本当の気持ちに蓋をし抑圧しながら生きることを
選んでしまった自分に対する後悔の念ばかりだという。

人生には必ず終わりがあること。
どんなに科学(医学)が進んでも死から免れることは叶わないこと。
この事実を知ったうえで自分がどのような人生を選択するかは自らのライフキャリアを
語るうえで絶対に外してはならない極めて重要な項目である。
終わりがあるからこそ「今」を大切できるのではないだろうか。

「どうせ死んでしまうのなら努力など無駄だ」と嘆く者もいる。
どんな頑張りも努力の成果も、いずれ消えてしまうと思うと虚しくて仕方がないという。
「虚しさにつける薬はない」というが、唯一そこに対峙し得るものは「実存」のみである。
実存とは、いま実感している私の感覚をしっかりと味わうことである。

誰しも先のことを考えれば不安が湧く。過去のことを想えば後悔に苛まれる。
どちらにも共通していることは、せっかくの「今」が台無しになってしまうことである。
だからこそ「今ここ」に集中し、今を味わい、
その積み重ねが明日を創るという流れを意志的に打ち立てることが肝要である。

自らの死を考えることは、即ち自らの人生を考えることにつながっている。
しかしながら残念なことに、これまでは学校教育でも、家庭教育でも、
そして地域教育においても「死」は忌み嫌われ、そのことに触れることはタブーとされてきた。

もちろん、夢多き幼い子どもに対して必ず終わりの日がやって来ると伝えることには
慎重であるべきだろうし、社会について何も知らないうちから「虚しさ」を実感的に
理解することが良いとは到底思えない。

ただ、当たり前のように必ず明日がやってくるはずだ・・という認識については、
そんな保証などありはしないことだけは誰もが知っておかねばならないと思うのだ。

未来のことをあれこれ考えるのではなく、過去に引きずられることなく、
「今ここ」に生きていることに価値があること。
そのことを子どもたちに示すためにも、大人たちこそが実践できていてほしいと切に願う。


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.105(2021年10月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"三木智子さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
   近況や情報などを発信いたします。◆

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皆さん、こんにちは。
キャリアコンサルタント養成講座33期修了生の三木智子と申します。

現在、臨床心理士・公認心理師、キャリアコンサルタントとして、フリーランスで企業の
メンタルヘルス対策の支援や研修講師などを行っております。

今回、心理職として働いている私がなぜキャリアコンサルタント養成講座を受講しようと思ったのか、
そして自分にとって影響の大きかった講座の内容について、お話させていただきたいと思います。

まず、私の経歴を簡単にご紹介いたします。
大学卒業後、製薬会社に就職して15年ほど勤務し、会社が合併するタイミングで早期退職いたしました。
退職後、兼ねてより興味のあった心理学を勉強し、臨床心理士を取得。
2020年3月まで、企業や介護福祉施設のメンタルヘルス施策支援サービスを提供している会社に
勤めておりました。

その会社に勤務して4年目に入ろうとしていた頃でした。
取引先の企業からご相談にいらっしゃる方の中には、ご自身のキャリアについて悩んでいる方も
少なくありません。また、自分自身もベテランの臨床心理士に囲まれ、
今後、どのように成長していけばよいのかを悩んでいる時期でもありました。

そのとき、ある会社のメルマガにテクノファのキャリアコンサルタント養成講座が紹介されていました。
講座の内容から、自分の今後のキャリアを考える上でも、
またご自身のキャリアで悩んでいらっしゃる相談者の方の支援にも役立つのではないかと思い、
養成講座に申し込むことを決めました。

また、臨床心理士の中でもキャリアコンサルタントを取得している方は少ないですので、
自分の強みにつながるのではという期待もありました。

実際にキャリアコンサルタント養成講座を受講してみると、働く人々の支援につながる知識の習得
だけでなく、体験を通して、自分の人生を見つめ直すことができたことが一番の成果だったと
感じています。

中でも、自分にとって特に影響の大きかった講座を2つご紹介したいと思います。

キャリアコンサルタントの養成講座を開講している団体は数多くありますが、テクノファの特徴として、
キャリア開発ワークショップ(CDW)を実際に体験できることが挙げられると思います。

テクノファの資料に寄りますと、CDWの学習目的は、「自己理解、仕事理解、職業能力開発支援とは
何かを理解するために、自分自身のキャリアプランニング行い、自分自身の働く意味の明確化を行い、
他者との違いを理解することで、支援者のあり様を学ぶ。」です。

CDWを体験し、私個人としては「自己理解」が最も難しく、かつ重要であると感じました。
社会人になると目の前の事に精一杯で、自分自身について、
じっくり考える余裕がなかったように思います。
CDWでは、自分はどうしたいのか、どこに進みたいのか、
それは本当に自分が目指したい方向なのかを自分に問いかけ、その答えを探す作業に取り組みます。

2日間のCDW体験の中で明確な答えは出せませんでしたが、答えが見つからなかったという
不安な気持ちをCDW参加後のレポートに記述したところ、担当講師の先生から、
「焦る必要は何もありません。そのように探し求めることが自分を大切にしていくことにつながります。」
というコメントをいただきました。

普段、相談者の方に「自分を大切に」と伝えている側ですが、年齢的なこと、
スキルアップが思うようにいかない焦りや将来の見通しが立たないという不安の中で、
知らず知らずのうちに、自分で自分を追い詰めていたことに気づきました。

もう一つは、アサーション・トレーニングの講座です。他社では行っていない内容ですので、
この講座もテクノファの特徴の一つだと言えます。

実は、私が臨床心理士を取得しようと思ったきっかけは、アサーションとの出会いでした。
アサーションは、「自分も相手も大切にする自己表現」です。
自分の気持ちを率直に正直に表現するだけでなく、相手の気持ちもしっかり聴くという意味も含まれています。

大学院時代から学んでいたアサーションは自分の強みの一つであると思っていましたが、
仕事の中で活かせていないという焦りがありました。
養成講座で改めてアサーション・トレーニングを受講し、初心にかえることができました。
以前より自信をもって仕事に取り組めていると感じています。

そして、養成講座の同期の皆さんとの出会いによって、自分の世界が広がりました。
同じ専門職の中で仕事を続けていると、新たな視点で物事を考えることが難しくなってきてしまいます。
様々なバックグラウンドを持つ同期生との出会いは、とても刺激的であり、
当時悩んでいた私の心の支えになりました。
今は会えない状況が続いていますが、同期生とのつながりは、これからも大切にしていきたいと
思っています。

養成講座を受講してから3年ほど経ちますが、当時学んだことは、自分の成長につながっていると
実感しています。資格取得後も学びは続いていますが、これからも人との出会いを大切にしながら、
少しずつでも前に進んでいけたらと思っています。


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.102(2021年9月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"鈴木秀一さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
   近況や情報などを発信いたします。◆

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今回は私が関わっている教育・福祉領域を話題の切り口として提供させて戴こうと思う。
みなさんの仕事や日々の生活にも共通すると思われる項目も含んでいるので、
ぜひ最後までお読みくださるようお願いしたい。

さて、私は学校教育現場においてカウンセラーとソーシャルワーカー(福祉士)の
2つの対人援助職を生業にしているのだが、もっとも大切にしていることは何か?
と問われれば「自己覚知」と答えたい。

自己覚知とは、特に福祉の領域において重要視される前提条件的な概念である。
対人援助活動の中で、自分の行動選択が何を目的としたものか?
または何のために行なおうとしているのか?など、場面ごとに冷静な判断が要求されることから、
そこに何らかの偏った心情的要素が入り込んでしまったり、クライエント本人にとって何を
意味するかを履き違えることのないよう、援助者が自らの成育歴をも含めた傾向や捉え方の
クセ等について予め自覚しておこうという、言わば「戒め」のようなものである。

福祉士の養成課程では、自分を客観的に捉え、俯瞰することを意識し、
常に自己観察を怠らないように!と釘を刺される。
これは、近年における採用面接の場においても大切にされてきており、なぜこの職業を選んだのか?
と問われたとき「人の役に立ちたいからです。」などと答えようものなら面接官は眉をひそめてしまうかもしれない。
その理由は、この受験者は強い承認欲求を持っているのではないか?と思われてしまうからだ。

人は、成育歴の過程において充たされなかった幾つかの欲求を渇望的に持っているものだが、
特に他者からの承認欲求が強い場合、「ありがとう。あなたがいてくれて良かった。」、
「あなたのおかげで助かりました。」という言葉は、まるで麻薬のように作用する。
(これ、朝ドラ「おかえりモネ」の中でもテーマのひとつになっていましたね。)

「あなたが必要だ」と言われたときの心地良さが忘れられず、さらに感謝の言葉を浴びたくなり、
つい必要以上にやりすぎてしまう・・このように「自分が求められることを望む者」が福祉の仕事に
就いてもらっては困るのだ。
なぜなら、福祉とはあくまで「自立のための援助」でなくてはならないからである。
だが「してあげたい者」は、相手の「してもらえて当たり前」といった依存心を引き出してしまい、
結果的に両者は共依存に陥ることになる。
これが「してあげたい援助は援助に非ず」と言われる所以だ。

それ以前に、この関係を構図的に捉えれば、援助者が自分の承認欲求を充たすために目の前の
「困っている人」を利用していることになってしまう。これを援助活動と呼ぶわけにはいくまい。

また、未だ自分の面倒さえ看ることができない未熟な身(小中学生)でありながら「誰かの役に立ちたい」とか
「社会貢献をしたい」と云う言葉の背景には、たとえば親から愛情を得られなかったために他者から愛されること
に渇望感を抱いていたり、弟や妹から母親を奪われたといった感覚「見捨てられ不安」があることが多いが、
親子の間にしっかりと愛着が形成されていなければ自分の存在そのものに価値を見出すことができなければ、
いくら好結果を出そうとも自信につがらない。
となれば、まずはそのような自分の傾向を認め、あえて向き合い、何らかの方法で欠乏感を埋める必要がある。

だからこそ、進路を決める際に親や教師が生徒や学生に対して行なうべきことは
「なぜそれを目指そうと思ったのか」、「何がきっかけなのか」、
「あなたは、その職業に就いて何を目指すつもりなのか」といった諸々の問いかけであり、
「この大学はどう?お薦めだよ。」などと、すぐにガイダンスを始めることではない。
そもそも「進路指導」という言葉そのものが、おかしいのだ。
進路を指導することなど誰ができようか?

キャリアガイダンスではなく、やはりキャリアカウンセリングでなくてはならないのは、
そういった理由からである。

ところで世の中には様々な職業があり、人はそれぞれ自分なりに希望を持って職業選択を行なうわけだが、
この「自己覚知」なるものは単に福祉領域だけに限らず、ありとあらゆる「ヒューマンサービス」に
必要ではないかと考えられる。

人が何らかの過ちを犯すとき、そのほとんどが自らの言動に対して無自覚であり、
無意識的かつ反応的に行動してしまっているものだ。
(中には、自称「メンタリスト」を名乗りながらも自身の認知が歪んでいることや
自我の肥大化に気づかないまま公的な場で失言してしまい、世間からの壮絶な批判に晒される者もいる。)

また、昨今、様々な団体が「アンガーマネージメント」を注目しているが、
これもまた単に怒りを抑えることを目的としたメソッドではなく、感情教育のひとつとして捉える必要がある。

日本は知識の習得については非常に熱心だが、感情を育てるという認識については希薄だといえる。
(アメリカではソーシャル・エモーショナル・ラーニング(SEL)として定着しつつある。)
じつは、アンガーマネジメントとは感情教育のひとつなのである。。

怒りが生じる前に湧き上がる一次感情に気づき、それをどのように扱うか、
つまり自己理解を目的にしている。それゆえマネージメント(管理)と呼ばれるのである。

ちなみに怒りとは二次感情であり、一次感情が変換されたものに過ぎない。
怒っているようでもその本心は、悲しかったり、悔しかったり、または羨ましかったり、
希望が叶わず落胆していたり、怖れていたり、絶望的な気分になっていたり、
恥ずかしかったり・・というわけだ。
それらの感情が怒りに化けたのである。
これらの感情を自覚できなければ、なんでもかんでも怒りにして表出するしか術がない。
不快を感じるのは自由だが、それを誰か(何か)のせいにし、怒りをぶつけて消化しようとするのは問題だ。
一次感情に気づき、それを言葉で表現すれば概ね解消できるものだが、
怒りという別の感情に変えてしまっては性懲りもなく繰り返すだけであろう。

他にも、意図的に怒りを見せることで相手を黙らせたり、要求を通そうと目論む者もいる。
心理学者アドラーは、感情には目的が隠されていると説く。

自分の心を常にモニタリングしておくことができれば滅多に失敗などしないものだが、
ついウッカリとか、後から「なぜ、あんなことを口走ってしまったのだろう・・」といった後悔は、
自己観察ができていないから起きてしまうのだ。

ついでに言えば、一般的にいわれる「変な人」も、あえて意図的に演じている場合を除けば
「自己観察が機能していない人」と解釈することができる。
自分に何らかの偏りやバランスの悪さがあることに気づけないのである。

こと営業職においては、交渉相手が発する言葉にいちいち苛立ちを覚えたり、
相手の態度や仕草に翻弄されてしまっては仕事になるまい。
冷静であるために、またしっかりと思考を働かせるには常に自らの感情に気がついていることが重要である。
そのためにも常に客観的な視点を忘れずにいたいものである。

自分を知るためには、これまでの生育歴を振り返り、
いつの時点で誰からどのような影響を受けて現在に至るのかを敢えて客観視してみる必要がある。

なにか失敗をやらかしたときとか、何かに腹立たしく思えたときこそ自分を観る絶好の機会である。
そんなときは行動面だけに焦点を当てた「反省」ではなく、なぜそうしたくなったのか?
または自分が何に対して反応したのか? といった根源的な部分、つまり動機や湧きあがった感情に焦点を当て、
善し悪しの評価をいっさい持ち込まない「振り返り」を行なうことに価値がある。

それができた上でようやく「いま、この瞬間の自分」を自覚することができるのである。

自分を理解できていること・・これは言うは容易いが、じつはなかなか難しい。
人は誰もが他者のことはよく見えても、こと自分についてはなかなか見えないものだ。

それゆえ遠慮せずになんでも指摘してくれる友人は人生の宝といえるが、
それと同様に文句を言ってきたり皮肉をいうような不愉快かつ歓迎したくない相手もまた、
その行為を生み出すきっかけとなっているやもしれぬ自分の仕草や表情に気づかせてくれる
「感謝すべき存在」と言えるのではないだろうか。
______________________

※ まずご自身がカウンセリングを受けてみてはいかがでしょう。
カウンセリングを「困りごと相談」や「治療」のように思い込んでいる人が多いようですが、
じつは特に悩みがなくとも受けられるものなのです。
カウンセラーと共に自らを鳥瞰することで、気持ちの整理ができたり、
自分がどんな人間であるか自己洞察のきっかけになるかもしれません。

◆終わり◆


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.101(2021年8月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"吉末直樹さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
   近況や情報などを発信いたします。◆

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コラム  キャリアコンサルタントとしての活動               吉末直樹(31期)

伊良波さんよりメールが来て明日までにコラムの原稿を書いてくださいとの依頼を受けました。
わずか1日というショートノーティスに少々困惑しましたが、伊良波さんにはお世話になっており、
お困りの際はお助けしようと思いました。

そこで今年4月より週1回の大学生1年生の「キャリア教育基礎」を担当する機会を通じて得た経験、
話したトピック等を述べたいと思います。皆様の今後の活動や指導の参考となれば幸いです。

コースの内容は、ワークショップとしてセルフワーク、ペアワーク、グループワークなどを通じて毎週の課題に対して
各自が自分の意見をまとめて各グループより1人が意見を発表する流れを90分の授業の中で2回ほど繰り返します。
90分というと長く思われそうですがワークの内容が多いのでスケジュールを分刻みにこなしていく感があります。
学生の話し合った事柄や考えた事項について毎週レポートの提出があり、週末のうちにレポートへのコメントを
こなします。

コースの目的は、将来について考える機会を通じて現在の目標を把握することにより、
充実した大学生活を送れるようになることです。

以下クラスでの発表やレポートより気づいたことを書いていきます。
1)人前で話すことやレポートを書くこと
自分の意見を人前で話すことに慣れている学生は稀です。
将来社会人になると理系・文系を問わずプレゼンの重要性は肌身に感じることです。
また、レポートの作成から始まり将来提案書等を作成するなど文章を書くことも社会人として
身につけねばならないスキルです。
大学生最初の学期に、話すことと書くことの重要性を認識して、そこから機会があれば話し方のクラスや
スピーチの練習に参加するなどの努力を重ねる姿勢を身に着けていくように指導が肝要と思われます。

2)視野を広く持つこと
理工系学生のコースであるので自分の専門性について深く追求したいという傾向は多くみられます。
専門性を深めることも大事ですが、新たな友人、異分野の友人を広く持ちかれらとの交流を通じて
自分の知らない考え方から学ぶことを、皆さんに実践してほしいことです。

そこで次のような話をしました。人生は学ぶことであり、その方法論は「様々な本読み、様々な人に出会い、
様々な場所を旅してみる」ことにあります。
デジタル化はされている古典から新たな技術まで本を紐解くことにより情報は入ってきます。

次に人とめぐり合うこと、例えば自分がこれから学びたい分野について第一人者の話を聞くことや
様々な人との出会いを通じて気づくことや刺激を受けることが多々あります。
そして知らない所に行くことにより素晴らしい場所との出会いを得ることができます。
つまり本を読むことは著者との対話、人と会うことは文字どおり対話であり、
旅は異なる場所に住む人を知ることです。学ぶことの全ては、人とのつながりを持つことを意味しています。

出典:出口治明「人生を面白くする本物の教養」

3)働く事の労働価値について
働くことのイメージについて、どのような労働価値(14の労働価値観)に
基づいて働くのかについてグループワークの後発表を行いました。
仕事の経験はないものの発表の多くは経済的報酬、能力の活用、社会的評価、
ライフスタイルなどごく常識的な答えに集約されました。
最後に講師として自分は何のために働いているのかを述べました。
それは愛他性(人に役に立てること)、危険性(わくわく感がある)、
達成(わずか数ケ月でも学生が成長していることに
対する達成感)、社会的交流(他の講師との協力など)と
発表してみるとかなり違うことに少々驚きがありました。
ただし現在の自分の労働価値については納得しています。

4)レポートの評価について
毎週レポートが提出されて、土日をかけてコメントを記入して返しています
(コメントとは別に評価をつけて学校に提出しています)。
コメントについて始めるにあたりどういう方針をとるかを考えました。
採用した方針は良い点を探してほめることです。
ほめることは相手の存在価値を認めることになります。
認められた方は目の前の事項に前向きに取り組み始めます。
このような状態になるとピンチもチャンスへと変わるものです。
4月の頃のレポートには、友人がいない不安感や1年の科目をこなせるかについての不安な内容が多かったようです。
数ケ月ほめるコメントを続けた結果、担当する学生の出席率は100%となり、
レポートの提出もその日のうちに出されることも多くあり、さらにレポートの内容も前向きなものとなりました。
毎回のコメントの記入はやりがいのある仕事です。

                                              以上
◆終わり◆


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.102(2021年7月号)…

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 キャリア・カウンセラー便り"鈴木秀一さん"です。

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プロ意識と自己評価

コロナの感染を避けるために、通勤には電車を使わず自家用車を使っている。
月におよそ1800km・・この一年半で3万km以上も走ったために走行距離の累計が12万kmを
超えてしまった。
車検の期限は今年の9月までだが、もし感染が収束に至らずこのペースで距離が増え続けるとなれば、
2年間でゆうに18万kmを超えてしまう計算になる。
そうなると突然の故障で緊急時に役に立たないといった事態も懸念される。
大切に乗ってきたクルマなので愛着はあるものの、同時に日々の生活に欠かせない足としての道具でもあるのだ。

そのようなわけで、たまには新車の発表会にでも行ってみようかと思ったわけだが、
そこで出会った若い営業マンに対して大きな不満を持つことになった。
彼はとても愛想がよく、身なりもきちんとしており、席につくなり冷たい飲み物はいかがですか?
と聞いてきた。ありがたい。
真夏日であったこともあって喉が渇いていた私はアイスコーヒーを頼むことにした。
第一印象は悪くない。接客の態度も好ましいと思った。

新たに発表されたクルマを見に来たのは自分だけではなく、他にも多くのお客さんが来店していたのだが、
コロナの感染対策のこともあるので順番待ちになっている。
黙って待っている時間がもったいないと思い、遠くからクルマを眺めながらも幾つか質問してみた。

? 私:「これ、車高はどれくらいあるの?」
彼:「あ、ちょっとお待ちください。」と言ってカタログを見て調べ始める。

? 私:「重量は?」
彼:またしても「あ、ちょっとお待ちください。」と言ってカタログを見て調べ始める。

この2つの質問によって、彼の存在は私にとって全く意味のないものとなってしまった。
ページをめくる手ももどかしい。どうやら予めパンフも開いてなかったらしく、
どこに書いてあるのかさえ分からない様子。
じつは、似たようなことは20年ほど前にも経験したことがあるのだが、
つい「もお~、クルマを売りたいならそれくらいのことは覚えておけよ!」と心の中で呟いてしまった。

ます、?については、街中で立体駐車場が使えるか否かを知るために必要な情報だし、
?もまた税金に関係する大きな問題だ。その他、実際に使用した際の燃費とか、快適装備、ナビの機能など、
クルマは高額商品なだけに買った後に後悔などしたくないから知りたいことは山ほどある。

営業マンたるもの来店したお客さんからこういった質問が出ることなど予想しておかなくてはならない。
少なくとも新車の展示会なのだから他の車種はともかく、
せめて注目を集めるであろう新型車種のデータくらいは頭に入れておいてほしいものだ。

彼は何も悪いことはしていない。人としてどうなのかは詳しいことを知らないので判断のしようがない。
もしかしたら親切で心優しく、思いやりのある方なのかもしれない。
しかし厳しいようだが、彼の人格はともかく上の2つ以外にも商品知識として当たり前のこと(専門用語など)
も知らなかったことからクルマの販売を生業とする営業マンとしては失格だと言わざるを得ない。

じつは、かく言う私も過去に自動車メーカーのディーラーに勤務していた時期があるのだが、
新型車は言うまでもなく取り扱っているすべてのクルマのデータは常に記憶していた。
新しく入ってきたパンフレットは必ず家に持ち帰り、隅から隅まで目を通したものである。
もっとも、当時の私はクルマが好きで仕方がなかったし、パンフレットのページをめくるのは楽しみでもあった。
そもそも入社の動機は、第一にクルマが大好きだからであり、扱っている商品を愛していたと言ってもいい。
だから、商品知識を得ることは何ら苦痛ではなかった。むしろ営業を生業にできていること自体が幸せであった。
だが、今日の彼はクルマ好きではないように思えた。入社の動機は何だったのだろう?
などと余計なことまで詮索したい気持ちが湧いてしまった。

単に大企業だからなのか? それとも給与水準や福利厚生等の条件が他よりも良かったからなのか?
他にどんな企業と比較検討したのか? そもそも何がしたいのか?
興味本位で申し訳ないが、それを尋ねてみようかと思ってしまった。(けっきょく問わなかったけどね。)

彼はプロである。この場合プロという言葉は「そのことで収入を得ている」という意味である。
ただ、「プロ意識」となると意味合いもまたずいぶん違ってくるようだ。

以下、ウィキペディアより~抜粋
【プロフェッショナル (英: professional)は短縮形で「pro プロ」とも言うが、次のような意味がある。
まずは形容詞的用法が根底にあり、(元々の意味)「professionに関連する」あるいは「professionに属する」
という意味である。
なおprofessionとは、賃金を支払われるなりわい(=職業)のことであるが、その中でもとくにトレーニングを
要し何らかの資格を要するような生業を指す。

つまりprofessionとは、一般に「専門的な仕事」と表現されるもののことである。)
「職業的な人にふさわしい」という意味で、能力が高く、技に優れ、(その仕事に)確かさがある、ということ。
(アマチュアとは異なって)「主たる収入を得るために特定の分野に従事している(人)」】

「専門的な人」というかぎり、素人と比較して知識や技能で上回っていて当然であり、
お客さんにはそれを求められることになる。多くの者は専門性に期待があるからこそ相談しようとする。
そこに提供された情報を判断材料にしようと助言を求める。

だから、お客さん(依頼人)のほうが詳しいなどという逆転した構図などあり得ないことである。
先に書いた「彼の存在が意味のないものになってしまった」とは、そういう意味である。
彼にとってこのことが自分を振り返るきっかけとなってくれたらいいのだが、
もし「めんどうな客だな」と自分にとって都合のいい合理化を選んでしまうなら、
いつまで経っても「プロ」にはなれない。

お客さんの質問に応えることができなければ信用も得られない。⇒ 売り上げも伸びない。

ところで上の話題とは別件なのだが、つい先日、職場で行なわれた研修会において、
参加者全員に一枚の調査票が配られた。

内容は「自己評価」に関するアンケートに答えてほしいというものである。
言うならば「プロ」としての自覚を問われるものだ。その場で提出する必要がなかったので、
家に持ち帰ってから取り組むことにした。

この調査では「知識」と「技能」の2つが挙げられており、
それらの中に含まれる幾つかの項目において自身がA・B・C・Dのどの位置(段階・レベル)に在るかを
答えるような形式になっている。
これはなかなか難しい問いかけだ。
回答の如何によって職務務上の評価に晒される心配はなさそうなので皆も正直に答えるだろうが、
ありのままの自身を知る(自己覚知)には良き機会となった。

「知識」については、これで十分という到達点はない。
自分なりには十分だと思っていても深めれば深めるほど、自分が未熟であり知識も足りでいないことを思い知らされる。
もし経験値が意味を成すとすれば、自我の肥大によって変に自信過剰になっていても自分の手に余る難しい案件に
遭遇した途端に崩れてしまうといった痛い体験を幾度か得たことだろう。

だから、どの項目においてもAなどという選択はあり得ない。
Aを選択することは、自分がもうこれ以上は成長しない。またはできないことを意味する。
謙虚であり続けるためには、どれだけ学んでもB以上はないことを知ることではないかと思うのだ。

一方の「技能」については逆である。思い上がりでも何でもなく、なんとかAであろうと努める姿勢が問われている。
というのは、CやDを選ぶことは専門家という呼び名を自ら放棄することになるからだ。
専門家を名乗るのであれば、少なくともB以上でなくてはならない。
B以上であることに不安があるのなら納得できるまで研鑽に励めばいいし、常に専門性を深め、
それを維持するために勉強を怠らないことである。
変に謙遜しながら自分をディスカウントするのは、むしろ無責任といえよう。

ついでに言えば、これまで様々な「対人援助職」に携わる方々に出会ってきたが、
必ずしも資格を持っているからといって仕事ができるとは限らないようである。

「資格」について調べてみると以下のよう書かれていた。
【資格とは『?ある事をしてよいという身分や地位。また、?それを得るのに必要な条件。』】とある。

?に関しては「免許」と同意語として遣われているようだが、?こそが重要ではないかと思われる。
つまり、更新のない資格の危険性について、あまり触れられていないからである。
危険性とは、常に進歩的であろうと意志的に努めなければ資格を取得した時点から発展していないことになり、
時間の経過と共に徐々に時代の要請に応えられなくなって朽ちていくことである。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」年齢を重ねるほど、いい言葉だと思えるようになってきた。

話を戻すが、先に登場した営業マンは仕事に対してどのような姿勢で臨んでいるのか・・
このことは、いかなる職業にも共通するテーマだと思うのだが、やはり職業選択で大切なのは、
しっかりと悩み、迷いながらも最終的には自己決定であることだと思う。

自己決定でなくては自己責任にはつながらないからだ。しかし、自己決定には前提となる「自己理解」が欠かせない。

彼にとって仕事とはなんだろう? 何を目指してクルマの販売を生業としているのだろう?
就職する際にどういった自分を目指そうと思ったのだろう? 
まだ若い彼は、今後どのような人生を歩んでいくのだろう?

その意味でも、キャリア・カウンセリングは単なる就職支援だけではないことに加え、
就職した後も継続的に自分の在り方や存在価値まで関係する「自己を映す鏡」でもあることを
多くの人に知って戴きたいと思う次第だ。(※:セルフ・キャリアドッグ)⇒ 検索


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.101(2021年6月号)…

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 キャリア・カウンセラー便り"菅原正憲さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
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私がテクノファのキャリアコンサルタント養成講座を受講したのは、
国家資格になって第1回目の試験を受験するタイミング、5年前のちょうど今頃でした。

もともと、CDAやGCDFは仕事にも関連するところもあり興味があったものの、時間がとられる
ので躊躇していたのですが、国家資格になるのを機に思い切ってとることを決断しました。
というのも、同じ時期に社会人大学院の受験勉強をしていて、ダブルで取り組むことになるので、
それなりに思い切った感じだったのです。

ただ、目指す大学院は心理学系なので、キャリア理論など重なるところも多く、相互に補完も
できましたし、猛勉強したっていうほどでもないのですが。
キャリコンの養成講座は当時、国家資格になったこともあって、各社満員も多く、空きを探していると、
なんと、目指している大学院の教授がテクノファの養成講座に登壇しているのを発見(!)しました。
「これは、テクノファしかない!」と思い、すぐに説明会に行って、受講することになったのです。

そんな理由でテクノファに通ったのですが、実践的なワークや内省に時間をかけるところなど、
想像をはるかに超えた刺激的でかつ有益な時間となりました。修了生の皆さんはご存じの通り、
受験対策の講座ではないですよね。(いい意味で。)そして、無事、大学院もキャリコンも
合格することができました。

そもそも、なぜ大学院に通おうと思ったかというと、40歳を越え、会社における役割なども変わり、
ご多分に漏れず、ユングのいう「人生の正午」や、レビンソンのいう「人生半ばの過渡期」
といった中年の危機に直面しました。(←心理学の理論で言うと。
平たく言うと、この会社で働いていっていいのだろうかって感じでしょうか。)

そして、「このままではいけない。なにか新しいことを始めなければ。」と行動を開始しました。
そこで、今の仕事にも関連する心理学の専門性を身につけようかなぁ・・・と軽く考えはじめ、
調べているうちに、その大学院のことを知り、どうしてもそこに行きたいと思うようになったのです。

働きながらの大学院生活は、時間的に大変なところはありましたが、
人生のピーク(やはり、人生の正午?)と言っていいほど、精神的には楽しく充実した2年間でした。

1年生のときは、ほぼ平日夜間が週3日、土曜は終日、日曜もときどき授業というほど
忙しいスケジュールで、しかも、授業の後は学生同士、ときには先生も一緒にしょっちゅう飲みに
行って議論(?)を交わしました。

修士号は「カウンセリング修士」なのですが、臨床の実践の講義がほとんどないのと、
1年生の後半になると修士論文の構想に本格的に取り組む、研究中心の大学院と言ってもいいのが特徴です。
そして2年生になると、授業はほとんどなく、研究に専念します。

心理学の研究は、質問紙等により調査を行い、得られたデータを分析し考察する、いわゆる実証研究です。
私の場合、受験のときに提出した研究計画書から大きくテーマは変わらなかったのですが、
先行研究をレビューしていくうち、テーマが七変化する人もいたりしながら、
春頃にはテーマと調査対象者を決定し、先生と学生全員の前で構想を発表します。

とくに求められるのが、「新規性」と「社会的意義」で、それらが認められないと、
先生方に、「もっと先行研究をレビューしなさい」とか、「そのテーマで大丈夫か?」
といったことをかなり厳しく指導されます。
(いい大人が、仕事以外のことで厳しくつっこまれるのはかなりつらい・・・)

そして、夏から秋にかけて調査を行い、経過を報告する中間発表で、また、先生方から厳しい指導を受けます。
(研究が進んでいるこの時点で方向転換を迫られるようなつっこみは本当につらい・・・)
それから秋から冬にかけて、調査で収集したデータを分析し、論文を執筆し、1月に提出するという流れです。

私は、秋から冬にかけて、ほぼ毎日、大学院に行って、分析と執筆に明け暮れました。
とは言っても、いつも追い詰められてから、切羽詰まらないと行動しない私は、
「ああ、早くやっておけばよかった」と何度も後悔を重ねながらも、先生方や同期の仲間に助けられながら、
なんとか論文を仕上げることができたのです。(さっき、先生方に厳しいと言ってしまい申し訳ありません!)

大学院を修了すると、同期も口を揃えて言いますが、一時バーンアウト状態になります。
2年間戦地に赴いていて、帰還してぼうっとしているような感じ?あるいは大きな目標がなくなって、
ぽっかり穴が開いたような感じでしょうか?

幸い、その年の夏に、公認心理士の試験を受けるという小さな目標もあり、心理学の勉強を継続し、
そして現在まで、大学院の修了生によるキャリア相談員の集まりを通して、新たな学習や経験を
積むことができています。

さて、話は変わりますが、先日、キャリアコンサルティング技能士の2級を受験しました。
キャリコン資格の5年の更新が迫ってきて、講習を38時間以上(これは超負担!)を受けるなら、
2級をとって講習免除のほうがよいか、と安易に決めました。
(キャリコン資格の更新の方は、皆さんそう考えますよね?きっと。)

しかし、学科はキャリコンとそう変わらないものの、実技は別物で、かなり難しいということが
徐々にわかってきました。
学科の試験が終わって、実技の試験まで1ヵ月ちょっとになった頃、2級に合格している方が
勉強会を開いていただき、そこに参加し愕然としました。
「これは、絶対に受からない・・・」と、そのとき思ったほどです。

それから、一緒に受験する方とロールプレイングの練習をしたり、ケースの想定問答を
多面的に考えたりして、最後に、テクノファの「技能検定 2級面接対策勉強会」を受けて、
何とかぎりぎり合格することができました。このテクノファの講座は本当にためになりました!

今回、このような執筆をする機会をいただき、改めてここ数年の仕事外の私的に学習、
トレーニングしたことを振り返ってみると、すべてが面白く、前向きに取り組んでたなぁと
改めて感じました。
ただ資格をとることが目的ではなく、いかに本質を捉えるか、そして実践に役立てるかを
教えてくれたのは、テクノファの講座です。
これからも、その気持ちを忘れずに、自己啓発に邁進していきたいと思います。

◆終わり◆


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.100(2021年5月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"鈴木秀一さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
   近況や情報などを発信いたします。◆

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塞翁が馬

長らく業界内での仕事だけに専念していると、
自分の活動領域が社会システムのごく一部に過ぎないことを忘れてしまうようである。
先日、とある音響機器のメーカーに勤務する友人と電話で話す機会があったのだが、
彼が話す内容はといえば、衰退する一途のオーディオ業界の話題だけに終始し、
我々が学生時代に憧れていた大型のスピーカーやアンプの需要が減ってきていることへの嘆きと、
近い将来において業界そのものが消滅してしまうのではないかとの危機感について執拗に語るのだった。
ちなみに彼は所謂「オーディオマニア」であり、家には他の部屋とは一線を引いた「リスニングルーム」を持ち、
休日ともなればレコード盤に針を落として溝に刻まれた音を大音量で楽しんでいる。

かく言う私も確かにオーディオは趣味のひとつではあるし、バラコン(ミニコンポではなく、
いろんなメーカーの製品を組み合わせてトータル的に楽しむ)が当たり前だった時代にあって、
やれどこのスピーカーの音がいいだの、レコードプレイヤーなら〇〇メーカーの製品が優れているだの、
はたまたアンプとカートリッジの相性に至るまでマニアチックな話を楽しんだものだ。

もっとも、そうは言っても僅かな仕送りとアルバイトで生計を立てている学生の身分で高級オーディオなど
買えるはずもなく、知識のほとんどを音響機器の専門誌や電気店に置いてあったパンフレットに
載っていた情報に頼っていたので、いまにして思えば自分の耳で確かめた実感的なやり取りではなく
知識をひけらかすだけだったように思う。

だが、そんな彼は大学を卒業した後に大好きなオーディオメーカーに就職が決まり、
実際に憧れだった「高級オーディオに囲まれる生活」を手にしたのだった。

私としても過去に数多く存在したブランドや専門メーカーが次々に消えてゆく有り様を見て、
とても偲びない気持ちになるのは同じであるし、たまに電気店を訪ねてみても、もはやオーディオ売り場自体が
縮小を余儀なくされ、「高級オーディオ」などどこにも見当たらず、店頭に並ぶものといえば書棚や卓上にも
設置できるミニコンポばかりといった光景を目にすると虚しくも寂しい気持ちになる。
その辺りの心情については大いに共感できるし残念に思う気持ちは同じだ。

しかし、冷静に見渡せばオーディオが消滅したわけではなく、世のリスナーたちが減っているわけでもなく、
その代わりヘッドホンやイヤホン、またはBluetoothで接続できるワイアレスイヤホン(通話もOK)などの
商品市場はむしろ拡大傾向にあり、店舗によっては自由に試聴できるスペースを提供していたり、
品揃えも豊富で常に人だかりになっている。陳列されている商品の中には専用のアンプとの組み合わせで
軽く50万円を超える高級ヘッドホンや10万円を超えるイヤホンまである。

つまり音楽を聴くスタイルそのものが変化しただけであり、けっしてオーディオ業界が衰退しているわけではないのだ。
だが、彼は自分が取り扱っている大型の機器が売れなくなったことや自分にとって手放せない
「オーディオとはこのようなものだ」というイメージによって、
まるで総てが終焉を迎えたかのような絶望的な気持ちになっているのである。

久しぶりに連絡が取れた彼にとって、いまは新型コロナ感染の怖れなどより長年大切にしてきた自らの趣味を
共有できる場が少なくなってきていることのほうがずっと気掛かりなのだろう。

このような例は他にも多く観ることができる。
たとえば、そのむかし「ポケベル」なるものがビジネスマン(特に営業マン)にとって必須のアイテムで
あった時代を覚えておられるだろうか。

当時は、誰もが気軽に携帯電話を所有する時代がすぐ間近まで迫っているとは夢にも思わなかった。

すでにポケベルの販売にしがみついていた会社は軒並み潰れてしまっているが、
いちはやく時流を見極めて携帯電話の取り扱いを始めた会社は現在でも生き残っており、
いまやスマホやタブレット販売のみならず、先に述べたような通話にも使えるイヤホンも店内で
取り扱う品目のひとつとなっている。

かつて私も海外のオーディオメーカー各社に加え、数十社以上にも及ぶメーカーの商材を
一手に扱う代理店の営業マンだった経緯があるのだが、当時は大型の店舗が乱立し始めた時期でもあり、
お得意先のひとつである幾つかの小規模電気店が窮地に立たされていた。
経営者である彼らは、価格面でも品揃えでも到底太刀打ちできないと嘆き、半ば絶望的な状態に陥っていた。
それ故、まるで彼らのボヤキを聞きに周っているかのような状況が続いていた。
当時の私は、まだ心理学など学んではいなかったし、そもそもカウンセリングなどという言葉すら知らなかったが、
今で謂うところの「リフレーミング」はなぜか自然に身につけていて、悪循環に陥っている状況を
フレームごとひっくり返して物事を観る術を知っていた。
(「言葉のリフレーミング」ではなく「状況のリフレーミング」です。)

親の時代から長らく営業を続けてきた小規模店には有って、新たに進出してきた大型店舗が持っていないものは何か?
 自分たちが有する使える武器は何か? そんな問いかけをすると頭の固い店主たちは、
どうしても電気製品から頭が離れないらしく「うちは電気屋だからなあ」と呟くばかりだった。
電気屋は電気製品しか取り扱うことができないと勝手に思い込んでいるのである。

「コタツ」を例に挙げてみよう。コタツは電気製品でもあり同時に家具でもある。
ならば電気店も家具屋と同じく子どもが就学したと聞けば学習机を売ってもいいし、
冷蔵庫や洗濯機を配達できる軽トラックを持っているのなら食器棚や本棚だって取り扱い品目に加えることができよう。

当時はアマゾンやジャパネットなどの通販は始まっていなかったからカタログ販売的に多くの商材を
盛り込んだチラシさえ作って配ればいいし、契約後に仕入れるわけだから在庫する必要もない。

時間をかけて地域に馴染んだお店なればこそ、突然の訪問でも警戒されることがない。

まだ普及し始めたばかりのパソコンに至っては設定が難しく売りっぱなしというわけではいかなかったから、
電気店の店主がいち早く使い方やセッティングの仕方さえマスターすれば、
アフターフォローも込みで販売することができた。

もっとも、その10年後にWindowsが共通のツールとなったためにパソコンは誰にでも気軽に使える電気製品
のひとつになっていくわけだが、少なくとも他に先んじてパソコンの使い方を学んだ電気店にかぎって
10年間は大型販売店に負けない商材として据えることができたのである。

いずれにしても、私が勤務していた会社が多くのメーカーと取引きしていたことは強味であったので、
それを活かした提案を片っ端から行なった結果、私自身の売り上げ目標も達成することができた。

世界に冠たる自動車メーカーであるトヨタは、元を糺せば豊田自動織機で知られる機織り機のメーカーであったし、
化粧品や食品を扱うカネボウも「鐘ヶ淵紡績」を前身とする紡績会社であった。
京セラもまた、その名が示す通りファインセラミックスの専門メーカー
「京都セラミック株式会社」として創業したわけだが、いまでは電子部品や半導体まで扱う世界のブランドとなった。
新しいところでは、誰もがラジカセやテレビを製造するメーカーをイメージするSONYも、
現在ではソニー損保が企業を支える柱のひとつとなっている。

つまり、PDCA的な観点からいえば、「このようなものだ」という先入観や既成概念などの
「思い込み」に縛られてはいまいか?と自身に対して問いかけを行なうことこそが未来を切り開く鍵であり、
昨日までのスタイルに対する執着を断ち、発想的にも「~であるべき」から脱却を図ることこそが
生き残りのキーワードではないかと思われる。

手前味噌になるが、じつはこの私も20年前までコンビニの経営者であったのだが、
現在のようなキャリアカウンセラーや学校教育現場に身を置くソーシャルワーカーを務めることになるとは
全く想像すらしていなかった。
商圏内に競合店が現れたことで窮地に追い込まれ経営破綻してしまったわけだが、
危機に遭遇したからこそ現在への道が開けたといえる。

これもまた「塞翁が馬」であり、状況をリフレーミングできたからこそ生きてこられた。

何かを必死で掴んでいることで手が塞がっていては、新しいものは掴めないのである。

◆終わり◆


キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.99(2021年4月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"伊良波久美"(テクノファ修了5期)です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの
   近況や情報などを発信いたします。◆

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◆今回は、事務局の伊良波からコラムをお送りしたいと思っております。
しばしお付き合いください。

さて、昨日「ジェンダーギャップ指数2021」が発表されました。
調査対象の156カ国のうち、日本は120位です。
前年の121位だったので、1位順位が上がったのだけれど、
主要7カ国(G7)、東アジア・太平洋地域で最下位だそうですよ(+o+)

そんなことを言っている私も、長年の仕事人生の、初めのころは、
「女は、嫁に行くから仕事はできなくても可愛ければいい」
「女は、大学なんて行くと嫁の貰い手がなくなるから、行かないほうがいい」

それでも就職して仕事をし始めたときは、自前の持ち物として、
雑巾を出社日に用意するのは当たり前、机を吹いて歩くのが朝の日課であり、
社員全員分の湯飲みを覚えて、好みのお茶を入れ配るのがお仕事でした。

当時は女の人が定年退職を迎えられる職場は、学校の先生か、看護師さん、公務員、
外資系の会社だと、限られていたと思います。

そんな私は、なんと60歳を迎えて、めでたく定年となりました(^_-)-☆
自分自身が、こんなに働き続けられる世の中に変化するとは、驚いています。
世の中は変わるものなのですね~
こんなに変わってくることに予想していなかったのです。

というのは、それこそ20年前に、この女性が社会での活躍が難しいことに、
どんな活路があるのか、いろいろ試行錯誤していた時期があります。

その時はむさぼるようにいろんなことを学びましたが、
女性が支える側の役割でいいという価値観は、強固で、なかなか切り崩せなかった、
その価値観というのは、親から子へ受け継がれていくので、世代を超えて、
再生産されていく事実も目のあたりにしました。

日本が変わるのはあと100年もかかるだろうと思っていたのです。
でも、世の中変わるものですね。

さらに2020年は激動の1年でしたね、今まで無理だろうといわれていたことも、
どんどん進んで変更しなければ、社会が、会社が、仕事が、回らなくなりました。

新しいものを学んで、どんどん取り入れていかなければ、時代に乗り遅れてしまいます。
こんな時、まことしやかな噂に、翻弄されたりもします。

そう、変化は、不安と隣り合わせです。
未知の世界へ出向くのは不安が伴います、しかし、黙って動かないでいても変化は訪れます。

例えば、山登りをしていて、絶壁のような尾根道を歩いているときに、
恐る恐る転がらないように、落ちないようにと気を付けますが、
頂上にたどり着いた時の達成感や高揚感、景色のすばらしさ、あの時の気分は、
生きているという実感かもしれません。

崖の底、不安のほうばかり向いていては、素晴らしい景色も味わえない。

キャリア開発でいえば、不安材料ばかり並べても、いい仕事人生は見つからないわけで。
自分の見たい景色、青空を思い描いていくほうが、
きっと生き生きとした仕事につながるのではないでしょうか。

人生を波乗りにたとえた人がいます、サーフィンのように波の上をのっかっていくのも人生。
熟した実をつけた木の下で、じっくり落ちてくる実を待つのも人生。

ただ、変化が速いから、ずっと同じやり方で働くことはできないわけです、
波に乗っていたかと思えば、じっくりここは待ちましょう、なんていうように、
人生はいろんな生き方をその時その時で、チョイスして生きているのです。

自分は「自分の意にそぐわない仕事をやらされていたんだー」という気持ちがもし芽生えた時があったなら、
それを断らないという選択をした時点があったはずです。
「断らないには事情があったんだー!」ということであれば、その責任は自分に返ってきます。

いつも人生は決断の連続です、断るという選択は自分でも選択したと感じることはできますが、
断らないという選択も決断です。

そして過去の決断を今変えることは出きませんが、未来は変えることができます。

自分の人生は自分で作っていくものです。
その人生をどんな人たちとともに生きるか、それは自分の決断とともにあります。

そして一日の起きている時間の半分は働いている時間だとしたら、
その働いている時間が、豊かであってほしい、自分らしくいてほしい!!!!!

では、自分らしく働くということはどんなことなのか?
そのことを自分自身で考えることがキャリア開発であり、
お手伝いするのがキャリアカウンセラー、キャリアコンサルタントです。

なので、テクノファのキャリアコンサルタント養成講座は、
人生そのものの相談に乗ることができるような大きな意味でのキャリア開発を学んでいます。

それは、翻っていえば、自分自身の生き方も直面して、身をもって体験しなければ、学べないことです。

キャリアコンサルタンとの面談は他者の人生にかかわります、
正解の人生、不正解の人生が無いように、キャリアコンサルタントの面談に正解はありません。
ただ、相談者の人権が尊重されなかったとしたら、それは間違いです。

もちろん、他者の尊厳を守ることはとても難しいことなので、
(足を踏んでいる人は知らないけれど、踏まれた人は痛いのです)
トライ&エラーの繰り返ししかありません、つまり体験学習の上で、身につく感覚だと思います。

「私の足踏んでいます」と言われた時、それは自分にとっての試練がやってきたときであり、
それは成長のチャンスです、トライしていきましょう!トライした人にしか、その先の世界は見えません。

先の世界を見に行きましょう、いくつになっても出来ることです。成長に限界はありませんから。

  おわり◆