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キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.148(2025年5月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"鈴木秀一さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの

   近況や情報などを発信いたします。◆

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相手への尊重が欠けたままで「出会い」は起こらない

自分と同じ人間など、どこにもいない。
自分と他者が同じであるはずがない。
人と違うのはあたりまえ。
違っていてもいい。

「自分」は世界に1人しかいない稀有な存在である。

これは初等教育の時期における「キャリア教育」の大前提であり、基本中の基本である。

人は誰もが「自分なりの世界」を持っている。
ここで云う「世界」とは、「当人にとっての世界観」のことである。
つまり、自分が見ている世界・・「自分にとって」という一人称的な「認知」や「認識」
を意味しており、「理解できている範囲」や「実感していること」、「関心を以て意識して
いる(しようとしている)領域」のことである。

ついでに言えば「偏見」や「先入観」、「思い込み」などの非合理な認知もまた
「自分にとっての世界」である。
(これが意識化されて自覚できていないと「呪縛(囚われ)」になってしまうので要注意!)

たとえば、赤道直下の国に生まれ育ち「雪」に触れたことがない人々にとって所謂「雪国」
は異世界であり、生活のために必要な作業としての「雪掻き」や、玄関を出た途端に
「滑って転ぶ」などとといった体験は如何に想像しようにも無理があるだろうし、
「水道管の凍結」や「スリップによる事故」など、敢えて世界の人々の生活を紹介する
ような番組や本でも観なければ知る由もないだろう。

このことは、単に活動範囲(行動範囲)に因る違いだけでなく、それぞれが働く職場や
業界の実態や諸事情など、その「舞台裏」を見学させてもらえる機会でもなければ知る
ことはできない世界をも含んでいる。

NHKの番組「プロジェクトX」や「チコちゃんに叱られる」を観て初めて知ることも
多いはずだ。

一方で、それぞれの家庭でも個々に事情が異なる。
「貧困家庭と富裕層」、「母子家庭で二人だけの家族と、大家族(複合家族)」、
「朝になると通勤のために出掛けて行く父親と、家業である商店のシャッターを開ける
父親」、「決まった月給が安定的に得られるサラリーマンの親と、常に投資先の株価の上下
を気にする親」、「土日が休みなのが当たり前の公務員の家庭と、土日祝祭日こそが書き
入れ時とばかりに多忙な家庭」、「いつも笑顔で優しい母親と、常に苛立っていて怒って
ばかりの母親」、といった具合に、どのような大人たちに囲まれて育ったかに因って
世界観や認識に違いが生じるのは自然なことであり、それぞれに
「私にとっての普段(普通)」が形づくられている。

他にも、「ひとりっ子と、多くの兄弟や姉妹がいてパーソナルスペースが与えられない子」、
「平和ボケしてボーっと生きている大人たちで占められている国」と「長年に亘って内乱
が続いているために身の安全が保障されず明日を迎えることができるか否かの不安の中で
生きることを余儀なくされる国」、

このように、こと「違い」に目を向ければ含まれる事柄は枚挙に暇がないわけだが、個人
のパーソナリティ形成(人格)は、生得的な気質だけでなく、養育環境や成育歴、体験や
経験値など、じつに様々な要素が複雑に絡んで出来あがっている。

人が誰もが「唯一無二の存在」であることは紛れもない事実なのである。
そして、社会とはこのように様々な性質を持つ人たちの集合体であることが理解できて
いるのか?ということだ。

しかし集団の中で生きる人々は、なぜか「常識」を求め、自ら因習に縛られ、周囲と同じ
であれば安心し、違いを怖れる。これは大いなる矛盾だと思うのだが、なぜか孤立すること
が何よりも怖いようだ。
実際に「浮いている人」や「出る杭」が攻撃の的になって集中砲火を浴びてしまうことは多い。

特に、この日本という国は集団主義的な色合いが濃いようで、少数派の意見を黙殺するような
多数決を民主的な採択方法だと思い込んでいるだけでなく、異質異様な感じがするだけで存在
そのものを否定し排除しようとしたり、口に出すことはなくとも強制的に相手を操作する
同調圧力が強かったりする。

言いたいことが言えず、周囲との違いに敏感で浮くことを怖れ、他者からの評価を怖れるが
故に常に他人の目が気になり、目立たず隠れるように生きる人々・・

このような息が詰まりそうな閉塞感に病む社会状況の反動としてなのか、妙に不自然なほど
「ありのまま」「自分らしく」「オンリーワン」「多様性」など、誰もが他とは違う個人で
あっていいのだ!と敢えて強調するかのような言葉が蔓延っているように思われる。
(※「自分らしく」だけは取り扱い注意!)

ただ、多様性の必要性を叫んだり、自身としても「ありのまま」でいようとすることは結構
だが、そもそも個人の世界観が育った環境や経験に拠って大きく異なることが理解できて
いるだろうか。
そこに「尊重」や「相手への敬意」はあるのだろうか?という疑問が残る。

それらは、人と人との出会いには欠かせないものだからだ。
自分のことを示したい。解ってほしい。と言う前に、相手のことを知ろうとしているだろうか?

「山々や河川、田園風景といった自然に囲まれた田舎で育った子どもA」と、「高層ビルと多く
の人で賑わう繁華街で育った子どもB」では、日々の生活における感覚的な影響や必要と
される作業や行動にも大きな違いがあるはずなので、両者間に大きな差異が生じるのは明らか
だ。

たとえば、私は山形県山形市の市街地から離れた地域で育ったのだが、周囲が山で囲まれた盆地
であったことも関係しているのか、何となく常に「閉じ込められているような圧迫感」があった。
そんな私は、5年生のときに校外学習で訪問した宮城県の松島の景観に衝撃を受けた。

松島は言わずと知れた日本三景の一つであり、京都の天橋立、広島の宮島と並ぶ名所である。
目前に広がる美しい景色も然ることながら、その地域に住む人たちにとっては「ごくあたり
まえの日常的な光景に過ぎないこと」に驚いた。

逆に、内陸育ちの僕にとって鬱陶しく狭苦しい感覚しかない山々は、県外からやって来る
旅行客にしてみれば「素晴らしい自然」であり、季節によっては「新緑が目に沁みます」と
感激するのかもしれない。

なるほど沖縄に住む人たちが「ぜひ行ってみたい」という地域が北海道であり、北海道で
暮らす彼らが望む旅行先と言えば沖縄だというのも頷ける。
地元の高校を卒業した私が受験する大学を選ぶ際に、先ずは「キャンパスが都内に在ること」
を第一の条件に挙げたのも、当時の自分が都会への憧れと田舎に対する不満や劣等感を
抱えていたからだろう。

何が言いたいのかといえば、どんなものにも「自分にとって」「あなたにとって」が有り、
誰にとっても「私にしてみれば・・」こそが、実存的な意味で「世界そのもの」なのである。


「電車が大好きなんだ」という少年Aがいた。
「僕も電車は大好きだよ」という少年Bがいた。
Aは、電車の写真を撮るのが趣味の所謂「撮り鉄」である。彼の部屋にはたくさんの電車の
写真が貼ってあり、電車についてファイルしたアルバムも既に10冊を超えるという。
そんな彼はすべての電車の型式まで暗記しているという。

一方のBは電車に乗って車窓に流れる風景を楽しむことが何よりも楽しいと言い、特に
写真に撮ることはせず、目をつぶれば幾つもの風景を思い出すことができるという。
そんな彼は、ローカル線を含めて全国の路線図すべてを記憶しているという。

そんなやり取りを聴いていた中年の男性Cが横から口を挟んだ。
「きみたち、そんなに電車が好きなら、こんどウチに遊びに来ないか?」
伺ってみたところ、彼の家には部屋いっぱいに広がる大きなジオラマがあり、スイッチを
入れると小さな電車たちがまるで本物の電車のようにレールの上を走るのだった。

AもBもCも紛れもなく「電車好き」である。しかも、かなりのオタクと言えるだろう。
しかし、彼らの会話は噛み合わない。
なぜなら、ABCは3人が3人とも電車好きであることは共通しているものの、それぞれが
「自分にとって電車とは?」が大きく異なっており、興味の対象が違っているからだ。

カウンセリングにおいて重要なことは、あくまでも「クライエントにとって」への尊重である。
「ああ、それなら知ってますよ」とか「お気持ち、よく分かります」、
または「私も同じ目に遭いましたよ・・」が禁句である理由は此処にある。

「知っているはずがない」、「分かってたまるか!」そして、「同じ目に遭うはずないじゃんか!」
である。

「へえ・・」「ふ~ん」「ほお!」「う~む・・」「うわあ・・」といった感嘆詞を含む相槌を
以て、もっと知りたい、もっと聴かせてください。という姿勢と態度こそが、真の出会いの
始まりなのである。

◆おわり◆