キャリアコンサルタントになるなら株式会社テクノファのキャリアコンサルタント養成講座

株式会社テクノファは厚生労働大臣認定キャリアコンサルタント養成講座実施機関です。

キャリアコンサルタントとは

過去のメルマガ記事

テクノファのキャリア開発メルマガは月1回の発行です。
どうぞお気軽にお読みください。
購読は、無料です。

キャリア開発支援のためのメルマガを登録する

過去ログ(2012年度) 過去ログ(2013年度) 過去ログ(2014年度) 過去ログ(2015年度) 過去ログ(2016年度) 過去ログ(2017年度) 過去ログ(2018年度) 過去ログ(2019年度) 過去ログ(2020年度) 過去ログ(2021年度) 過去ログ(2022年度) 過去ログ(2023年度) 過去ログ(2024年度)


※バックナンバーは抜粋したもののみ掲載しております。メルマガを毎号お読みになりたい方は、ぜひメルマガ登録をお願いいたします。

キャリア開発支援のためのメールマガジン…vol.136(2024年5月号)…

■□■━━【コラム】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 キャリア・カウンセラー便り"鈴木秀一さん"です。

  ◆このコーナーは、活躍している「キャリア・カウンセラー」からの

   近況や情報などを発信いたします。◆

========================================================
先日、『「叱らない」が子どもを苦しめる(ちくまプリマー新書449)藪下遊、高坂康雅』
という本から引用した記事を見つけた。なかなか興味深い内容だったので、さっそく
購入して読んでみることにした。

主な内容は、子どもが不快にならないよう、親は彼らの要求に応えるだけで殆ど叱る
ことをしない。このような風潮が多く観られるようになって、人生で遭遇するであろう
幾多の困難を乗り越えることができない脆弱な若者が増えているのではないか・・
といったところだろうか。

現在、不登校児童生徒の数は二次曲線的に増えており、全国的にも小学生では60人に
1人(2クラスに1人)、中学生では18人に1人(1クラスに2人)となっている。

ちなみに高校生は、概ね3ヶ月以上に渡って欠席が続いた場合、進級に必要な単位を
取ることができずに退学してしまう。それゆえ正確な数字は出てこない。
(不登校は、あくまでも在籍していることが前提であるために退学すれば数に含まれ
なくなる。)

いずれにしても注目すべき事態であることに変わりはない。

私は18年ほど前まで大学のカウンセラーを務めていたのだが、その頃から既に不登校に
なる大学生は多くいた。

この本に書かれていることは、けっして今に始まったことではなく20年ほど前から
徐々に増えて現在に至ったと思われる。最近になって急激な増加傾向が目につくように
なり、注目が集まったと言えよう。

このことは、せっかく希望の職種に就いたものの1年にも満たない期間で辞めてしまう
若者の数が多いことと無関係ではあるまい。

このような定着率の悪さに危機感を持った厚労省が音頭を取り、先行する企業が
「セルフキャリアドック」の導入に踏み切ったのも、この流れに歯止めを掛けたい思惑が
含まれていると思われる。

私には不登校になる一部の児童生徒と、ある日を境に出社しなくなり、急に辞めると
言い出す従業員とが重なって見えるのである。
しかも本人が辞表を提出して辞めるならまだしも、本人の代わりに母親が一方的に
電話で辞意を伝えてくるという過保護ぶりも気になるところだ・・

むろん「セルフキャリアドック」は、単に会社を辞めさせないことを目的としている
わけではなく、企業側と従業員との関係性において、労働に対する賃金だけではない
何らかの対価的価値を見出すことや、企業人という立ち位置の中で如何に自己実現を
目指すか・・など、幾つもの側面を持つことに意味があるので誤解しないでほしいのだが、
短い期間で「この仕事は自分には合わない」と言い残して辞めてしまう若者に対して、
すぐに「ミスマッチでした」と決めつけるのもどうかと思う。

たしかに、自分には合わないと感じるのは自由であるし、辞めたいという意思表示が
あるにもかかわらず無理強いさせるのも考えものだ。

しかし、本人が入社前に受けた説明と実際の内容とが食い違い、まるでかけ離れていた
となれば話は別だが、そんなことでもなく、たった数ヶ月、または数日という僅かな
期間だけで辞めるという結論を出してしまうケースを見ていると、本人の主張とは
異なる何らかの背景があるのではないか・・と勘ぐりたくなる。

というのは、ここ数年間に増えた不登校児童生徒も、以前とは違って何のきっかけも
前ぶれもなく、急に登校しなくなるという摩訶不思議なケースが増えてきているためである。

話を戻すが、本に載っている内容としては以下の項目について書かれていた。

主なテーマは「思い通りにならないことに耐えられない子どもたち」であり、
幾つかの例が挙がっている。

・ 授業時間が長いからと学校に行かない子⇒不登校

・ 都合が悪くなると「いじめられた」と主張する子

・ 炎天下に「気が済むまで」子どもを公園で遊ばせ倒れた母親

・ 迎えに来る人を指定する園児

・「娘が嫌がる活動はさせないで!」と保育園に要求する母親

・ 修学旅行中、担任に電話をかけてくる母親

・「授業中に私に当てないでください」と教師に注文をつける女子高生と母親

こういった例を「あり得ること(同意)」と捉えるか、または「異常だ(違和感)」と
感じるかは読み手の自由だが、少なくとも以前であればあまり見かけなかった光景
かもしれない。

いろんな子がいていいし、それを個性と呼ぶなら否定するつもりもない。
ただ、私が学校教育現場に身を置いていて感じていることは、この5年の間だけでも
子どもたちの様子に大きな変化が観られることである。

それは、先にも述べたように家庭教育や地域教育において「子どもを不快にさせない」
という風潮が高まってきており、親たちもそれを学校教育現場に要求する流れがで
きてきたことだ。
その結果として「思い通りにならない場面に耐えられない子ども」が多く観られるように
なってきたと考えられる。

本の中では「押し返される経験の不足」と表現されていたが、そういった養育方針が
「万能感」の拡大を許し、いずれ人生において出会うであろう困難な状況や歓迎したく
ない出来事に耐えることができず、克服しようとする前に背中を向けて逃げ出す
といった傾向を生み出しているのではないか・・レジリエンスの低さに繋がっている
のではないか?といった疑問が湧く・・ということなのだろう。

もちろん、同じ子などいるはずがないし、他の子と違っていることに何ら問題はない。
逆に、皆が同じ顔をして同じ格好をしている世界などゾッとする。

だから、他の人は我慢しながら頑張っているのだから、あなたも耐えなさいなどと
言うつもりは毛頭ない。
繰り返しになるが、誰しも違っていていい。同じであることで安心するのもまた妙な話だ。

だが、近頃になって俄かに流行り出した「多様性」という言葉を誤認したまま乱用し、
自分勝手な振る舞いが許され、イヤなことは避けて通るための言い訳に使うのは
如何なものだろうか?と思ったりもする。

また、本のタイトルにある「叱る」にしても、「怒る」と区別することなく遣っている
人は多いのではないだろうか?
「怒る」とは自らの中に湧いた不快な感情を短絡的に相手にぶつけるだけの行為であり、
怒鳴る声も大きい。
言うまでもなく相手は委縮し、投げかけられた言葉に傷つくと思われる。
おそらく反感を持つことだろう。

つまり、怒るというのは心に湧いた不快感を誘発させた相手に対して
「自分の気が済むこと」を目的に感情をぶつける行為と解釈できる。

一方の「叱る」は、冷静ながらも相手に対して必要だと判断した上で敢えて行なう
行為である。大声を出すこともない。むろん冷静であるが故に言葉も選ぶだろうし、
そこには相手に対する思いやりや愛が含まれている。
ならば、叱られている相手は「愛」を感じつつ、神妙な面持ちで話を聴くのではない
だろうか。

この「叱る」という行為は、先述したようにあくまでも「相手のため」であり、
しっかりと育ってほしいという願いと共に、相手にとってこの先も社会で生きていく
ために必要なことだから・・という想いが込められているのである。

それが為されることなく育ってしまった子は、きっと周囲から距離を置かれて孤立したり、
自分勝手だと非難されることは想像に難しくないし、柔軟さに欠けるために本来であれば
「いらぬ苦労」まで背負い込んでしまう展開もあるだろう。
家の中で許される行為も外の世界では通用せぬことを予め知っておくことは大切である。

ここはきわめて重要な点なので勘違いしてほしくないのだが、集団主義的に周囲の空気
を読んで迎合せよと言っているわけではない。
我々は行動を自由に選択できるし、自己決定あってこその自己責任であることに何ら
異論はない。

ただ、社会性を得ることは必要であるし、相手(周囲)と良好な関係を構築するためには、
自分の振る舞いが「相手からどのように見えるか・・の客観性」と、「他者からの指摘や
意見を受け入れることができる謙虚さ」くらいは持っていないと、
けっきょくは苦しむことになるだろうというのである。

「Z世代」という言葉を初めて聞いてから数年の月日が流れているが、すでに今は
「α(アルファ)世代」に突入しているという。

すでに高齢者となった私にとって、彼らについて行くのは難儀なことだが、なんとか
理解しようと努める姿勢だけは持っていたいと思うし、できれば世代間のギャップを
埋めるために、そして互いが歩み寄るためにも対話を試みたいと考えている。

◆おわり◆