◆このコーナーは、活躍している「キャリアコンサルタント」からの近況や情報などを発信いたします。◆ 今回の便りは”鈴木秀一さん”です。
政治不信と分断の構図
このところ巷では政治への関心が高まってきている。特に若者たちが社会人の一人として主体的に政治に関心を持つことは大いに歓迎したいところだ。
政治への参画意識の高まりと共に投票率も上がってこその民主主義だと思うし、皆が政治や社会問題を他人事ではなく自分事として問題意識を持つことに異論はない。
しかし、なぜか多くのSNSやブログにおいて政治の話題には触れようとせず、口を閉ざす傾向があるようだ。
私はフェイスブック上で毎日のように多くのトピックを立てて情報を拡散しているのだが、たとえば「美味しい料理ができた」とか、「旅の途中で風光明媚な景観に出会った」などの記事には多くの「いいね!」が付くものの、こと政治に関する記事をアップしたときには何ら反応が得られないという不思議な現象が起きている。
これは私だけに限ったことではなく、友人たちに聞いても同じような体験を語ってくれていた。ある人からは「鈴木さん、SNSでは政治のことを書かない方がいいですよ。」とご親切?に指導を頂いたこともあった。
もしツイッターやインスタで発信するとしても実名は名乗らず、匿名で書くのが一般的なのだという。このようなタブーの背景に、いったい何があるのだろう。
おそらく、そのトピに対してコメントを書いたり、意見を述べたりして関われば、その行為が誰かの目に止まり、あらぬ誤解や自分にとって不利になる評価を受けるのではないか?といった不安があるように思える。
じつは以前に「鈴木さんは、政治に関して右?それとも左ですか?」などと妙な質問を受けたことがある。おそらく彼としては、私が「保守系」なのか?「リベラル派」なのか?を知りたかったようだが、どちらにも属さないと思っている自分としては答えようがなかった。
逆に、そんな質問をしてきた彼に対して、なぜそのような単純な図式で相手を捉え、たった二つの選択肢だけで判断しようとするのだろう・・と虚しい気持ちが湧き起こったものだ。
スポーツ観戦じゃあるまいし、こと政治に関して「どの政党(チーム)のファンなのか、敵のチームを応援するのか?」のような視野狭窄的な捉え方は感心しない。
〇〇党を支持する? あの議員は△△党に所属しているから支持しない?なぜ、そんなふうに「白か黒か」の二者択一的な分け方だけで判断しようとするのだろう?
私は特に自民党を支持しているわけではないが、かといって新たにできた内閣を最初から否定するつもりもない。というのは、舵取りをする主なメンバーが旧内閣から大きく入れ替わったからだ。
選挙の度に何度も騙されるとマニフェストや公約など何の意味も持たないと思えてしまうし、彼らが立候補時に放った言葉が信用できない以上行動を観るしかない。変に期待値が膨らんでしまうと裏切られたときの落胆もまた大きくなるからだ。
そのようなわけで、今しばらくは黙って彼らの動向を観てから判断しようと思っている。さて、自民党内にもいろんな方がおられ、戦後の日本の発展からしてアメリカとの関係こそが欠かせないと主張する者もいれば、現状における経済的な流れを考慮し、今後のことを見据えれば中国との関係が重要だと言う意見を持つ者もいる。
だからといってアメリカに従順な議員と中国に忖度して何事も穏便に事を運ぼうとする者たちで二極化することではない。きっと同じ党に所属しながらも個々にいろんな思惑や目論見を以て国会議員をやっているのだろう。(残念なことだが、中には自分の懐を肥やすことしか考えていない議員がいるのも確かだ。)
たまたま想いが合致する、または自分にとって好都合な所属先が自民党であり、共産党であり、または維新であるわけだ。その意味では、どの党も決して一枚岩などではないのだ。
立憲民主党の中にも様々な思惑を持った議員がいて、旧民主党政権時代を彷彿とさせる元総理大臣の野田議員がいる一方で、たとえ相手が自民党であれ政策が一致するならば超党派として同調することも吝かではないという原口議員や江田議員もいる。
自民党でなければ立憲民主党を支持するのか?と問われても同じく答えようがないのだが、原口・江田両議員の質問や発言には納得できる部分も多く、個人として観ればあるていど支持していると言うことはできる。
これは国民民主党の棒葉議員であろうが、れいわの山本代表であろうが、はたまた参政党の神谷党首であろうが同じことで、所属している政党が云々・・というより、あくまで「個人が主張する見解」として捉えているし、いっそ政治の仕組みをガラッと変えて、派閥だけでなく政党そのものが無くなってしまえばいい・・くらいに思っている。
所属&集団内での妙な力動が国民不在政治の温床となることが多いからだ。そのような私にとって、比例区における投票では地域内の立候補者の氏名だけでなく政党名を書かなくてはならないので非常に悩ましく、どこを選ぼうかと躊躇してしまうことになる。
さて、さらに細分化して観れば、高市総理を中心とした現内閣が推し進めようとしている政策にしても「ぜひとも推進してほしい」と大いに賛同できる法案もあれば、「到底賛同することなどできない」といった内容とが混在している。
それゆえ「現内閣を支持しますか?」と問われても時間の経過を見ないと判断できないし、それこそ「あなたは右か左か?」などという「閉ざされた質問」を受けると、その質問者の動機と事柄に対する了見の狭さに落胆するというか、勝手に判断され分けられてしまうことに大きな抵抗感が湧いてしまうのだ。
ざっくりと「最近の国内政治や国際情勢についてどう思いますか?」と「開かれた質問」で問われたほうが自由に発想を広げてダラダラと話すことができよう。
ところで、アメリカではトランプが掲げるアメリカファースト的な政策を進める(右派?)と、いまもなおグローバル化を目指す(左派?)を支持する者たちとの間に生じる軋轢によって、国が真っ二つに分断されるほどの諍いが起こっている。
なぜ、このようなことが起きてしまうのだろう?と考えたとき、「自分は▢▢派だから」とか、「〇〇に属しているから」などといった「所属枠(同族意識)内」に入っている人たちがすぐに「自分たちVSヤツら」といった対立的構図を持ち込んでしまうからではないだろうか。
日本でも似たような状況が生まれつつあるように感じる。これはイデオロギー論争に限らず、いかなる場面においても言えることだが、相手の意見を聴く前から先入観だけで「反対」したり、私は〇〇派に付くと決めているから「賛成します」では端から議論になるまい。
代案を持たず、ただ反対するのは「批判」ではなく、単なる「否定&非難」でしかない。「非難」では何ら進展を生まない不毛のやり取りに終始するだけであろう。これでは、いつまで経っても合意形成に至ることはないのだ。
このような対立的構図は、ひいきのチームだけを応援するスポーツにも当てはまるだろうし、宗教などはその最たる例として挙げられる。カウンセリングで「防衛機制」について学んだ際に「世の中は、あなたの中にある投影によって出来ている」と聞かされたことがあった。
たしかに誰もが相手を観る際に勝手に湧き上がったイメージで捉える傾向がある。つまり、そのような自分の傾向に気づかないかぎり、思い込みによる色メガネを以て相手を決めつけ、いとも簡単に対立が起こってしまうのだ。
また、新聞やテレビなどの報道機関が偏向報道や印象操作的な姿勢が問題だと指摘され「オールドメディア」などと揶揄されているが、「情報リテラシー」、または「メディアリテラシー」が重要だという以前に、先ずは自分の中にある思い込みや偏見、そして先入観を一時的にでも脇に置けるかどうかが問われていると言えよう。
最後に・・
政治や国の舵取りについて、国会議員はどの政党に所属しようとも、あくまでも一人の議員として「超党派」で臨んでほしいし、国民もまた政党への執着や偏見を超えて「是々非々」の姿勢で判断することが必要かと思うのだが、如何だろうか?